御綱葉を投げ棄てる磐之媛 『摂津名所図会』 |
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター理事長)
仁徳天皇の皇后であった磐之媛【いわのひめ】は相当気性の激しい女性であったようです。天皇が何度か若い妃を迎えようとしますが、強く反対して許そうとはしませんでした。ある時、皇后が紀国の熊野へ神事のときなどに酒を盛るための御綱葉【みつながしわ】を取りに出かけましたが、その間に天皇は八田【やた】皇女を宮の中に迎え入れました。
難波済【なにわのわたり】にまで戻ってきた皇后はこのことを聞くと激怒して持ち帰った御綱葉を海に投げ入れてしまいます。そこでこの場所を葉済【かしわのわたり】と呼ぶようになったということです。
皇后は天皇の待つ難波の大津には立ち寄らず、そのまま河をさかのぼって大和に向かいました。天皇は使いを出して皇后に帰るように説得しましたが、帰ろうとはせず、筒城【つづき】の岡(現在の京田辺市多々羅のあたり)に宮を建ててそこに留まりました。そして天皇自らの出迎えにも応じず、5年後に筒城宮で亡くなりました。皇后磐之媛の陵墓は佐紀盾列【さきたたなみ】古墳群の一画にある大きな前方後円墳だとされています。
磐之媛は当時の有力な豪族の一つ、葛城【かつらぎ】氏の出身で、その後盾があったからかも知れませんが、当時としては珍しく、自らの意志を貫いた自立心の強い女性であったと言えるでしょう。その生き方に共感する人も多いはずです。
現在の西淀川区にかつては中津川が流れ、野【かしわの】橋が架かり、今も柏里という地名があります。真偽は別にして、古代の説話と結び付けてみるのもその地名の豊かさを拡げることになるでしょう。