円光大師(法然上人)伝「遊女の図」 『摂津名所図会大成』 |
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
建永2年2月、法然上人が讃岐の国へ流される道中、山城の国より船にのり、神崎の地まで来ました。このとき、宮城という遊女が小船をあやつり、上人の船に接近し、上人に向かって「うきしずみきわまりないわが身ではあるが、罪が深いことをざんげし、来世へ導かれることを願っています。」と教えを請いました。上人は大変哀れに思って、「無智闇鈍五障三従の身である女人であっても阿弥陀如来の本願に帰依して、名号を怠らずに唱えれば、いくら重い罪障であってもただちに消滅し、西方浄土に行けることはまちがいない。」と教え、ともに念仏を唱えました。すると、宮城と一緒に四人の遊女が合掌して、入水してしまいました。突然のことに人々は驚き、急いで船の櫓櫂などで捜しましたが、その甲斐もなく、遺体で見つかりました。五人のなきがらを一カ所に集めて、上人自ずから引導念仏し、ねんごろにとむらったいうことです。
当時、神崎川には橋が架けられていました。入水した五人の遊女の遺体が水中より、この橋の近くに揺り上げられてきたので、「ゆりあげ橋」と呼ばれるようになったということです。
津の国の なにはのことか 法ならぬ あそびたわむれ までとこそ聞け(遊女宮城 『後拾遺集』)
ゆりあげ橋が現在の神崎橋と同じ場所にあたるのかどうかはわかりません。ただこの地が中国街道という古くからの街道筋に当たっていることを考えますと、その場所は限定されてくるのではないでしょうか。さらに神崎橋のすぐ上流で、神崎川と猪名川が合流していることと、このあたりでは干満の影響を受けて水流が複雑に変化することを考えますと、五人の遺体が揺り上げられたこともうなずけます。
遊女入水の説話は、『摂陽群談』にも取り上げられていますが、ストーリーに若干の違いがあり、少しずつ話の内容を変えながら、広く伝えられていたのでしょう。
上田秋成は、この説話を基にして『春雨物語』の中の『宮木が塚』という小説を書いています。秋成は加島の香具波志神社の宮司と親交があり、医術修行のためにこの地に住んだことがあります。このとき、宮城の話に興味をもち、人々に忘れられたようにわずかに残っていた遊女塚を訪れ、次のような和歌を手向けています。
この野辺の 浅茅にまじり 露深き しるしの石は 誰が手向けども
物語は没落貴族の子女である神崎の遊女宮木と昆陽野(こやの)の若い長者十太兵衛の悲恋話に仕立てられています。そして結末も宮木一人が入水することになっています。このような展開は、説話の中にこのような筋立てのものがあったというよ
りは、秋成の創作によるものでしょう。