松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
延暦3年(784)に平城京から長岡京への遷都が行われましたが、これにともなって淀川と三国川(神崎川)を連絡する工事が行われました。この開削工事は、和気清麻呂が指揮したとされ、目的は淀川の洪水調節にあったとも考えられますが、主な理由は西国諸国との舟運を便利にするためのものでした。消費都市である京都は、必要物資を西国諸国に大きく依存しており、それとのスムースな交通路の確保はたいへん重要でした。
滝川政次郎氏は、中でも山陽、南海諸国の米を長岡の都へスムースに運搬することが第一の目的で、「貢船が淀川の河口を避けて、神崎川の川尻から予渡(よど)の津に向かったのは、その方が近距離であったばかりではない。土砂の流れ込むことの少ない神崎川の川尻は三角州の発達遅々たるものであって、航行の危険が少なかった」ためであると説明しています。こうして平安時代の物資輸送のメインルートは神崎川筋に移り、分岐点である江口を始め、神崎から川尻の沿岸地域が特に繁栄しました。その反面、難波の津は寂れていきました。
交通の拠点となった地は、後の時代でもそうであったように、色里がつきものです。江口、神崎は平安時代を通じて最も有名で、規模の大きな遊里でした。大江匡房(まさふさ)という人が12世紀に書いたとされます『遊女記』には、「摂津国にいたる。神崎・蟹島築地あり、門を比べ戸を連ね、人家絶ゆるなし、娼女群をなし、扁舟に棹して旅船に着き、もって枕席をすすむ。けだし天下第一の楽地なり。」と誌されています。ここにある神崎は現在の尼崎市東部を指し、蟹島は大阪市淀川区加島に当たります。
平安時代には隆盛を極めていた江口、神崎の遊里も、平氏が政権を握ったころから衰えを見せ始め、『太平記』の描く南北朝時代には遊里としての繁栄の名残も見られなくなっていました。