北詰親柱に刻まれた「古今集」の二首 |
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
この歌の「つくる」の意味について古くから歌人や国学者らによる論争が行われてきました。『古今和歌集』の紀貫之による序文にも、
今はふじの山もけぶりたたずなり
ながらのはしもつくるなりときく人は
うたにのみぞ心をなぐさめける
とあります。
この「つくる」が、「造る」なのか、「尽くる」なのかについてすでに平安時代より様々な議論が行われていました。もし「造る」であるとしますと、伊勢が活躍した時代、つまり宇多天皇の時代(887〜897)頃には再び架けられたことになります。再架説には、一条兼良、契沖、本居宣長などがおり、一方、「尽くる」とする不再架論者には賀茂真淵らがいます。そして議論を飛躍させて、橋はやがて造られるべきであるという詩人の想像力が生み出した歌であると解釈する藤原俊成、定家などのうがった説も立てられました。
昭和になってからもこれに関する議論がなされていますが、歌の解釈論はともかく、当時の難波のことを考えてみますと、平安遷都以後、難波はしだいに副都としての役割も失い、さびれつつありました。和気清麻呂による淀川と神崎川の連絡工事によって、水運の中継地が江口や神崎の地に移っていったため、難波から北の方へ向かう道の必要性が低下していったと考えられます。
さらに律令体制そのものにゆるみが出て、平安初期に架けられたいくつもの橋の維持が十分にできなくなっていたことを考え合わせますと、長柄橋は再び架けられることはなかったのではないでしょうか。