松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
長柄渡口『摂津名所図会』より |
信頼性の高い正史の上に長柄橋の名が現れるのは『日本後紀』嵯峨天皇の条に、「弘仁三年六月己丑に使いを遣わして摂津国の長柄橋を造る」とあるのが最初です。これによって今日では弘仁3年(812)に初めて架けられたとするのが定説になっています。
長柄橋は律令の制度にのっとって中央政府から造橋使という役人が派遣されて工事が行われました。しかしその約40年後の仁寿3年(853)にはすでに廃絶していました。そのことは『文徳実録』の中に「仁寿三年十月戊辰に摂津国より、長柄、三国の2つの川には近頃は橋が断絶していて人馬が通せないので、堀江川に準じて2隻の船を配置して、渡しを設置したいと伺いをたててきたので許可をした」とあり、時の政府は橋の再建をあきらめ、渡船の設置を認めたと考えられます。
古代の長柄橋の位置については古くからいろいろな議論がなされてきましたが、定まった説はありません。現在は大半が淀川敷となった橋寺村(豊里大橋付近)の近くにあったとする説を始め、現在の大淀区長柄から吹田市垂水町に至る約4kmに点在していた島々を結ぶ橋の集合であるという説や、後の渡辺の地、つまり現在の大川(旧淀川)の天満、天神橋の辺りとする説などがあります。
『文徳実録』の堀江川を『仁徳紀』などに記された難波の堀江であるとしますと、これは大川に当たると考えられますので、長柄川は後の中津川とするのが素直なのではないでしょうか。だだその架橋位置については2つの川の分流点付近であったと推定する以外、何の手掛かりもありません。