▲60期、1年生の夏(カーキ色の国民服や戦闘帽が目立つ)
「北野の暗黒時代~戦火をくぐった精神遍歴」三島佑一さん@60期
今年はもう戦後63年になる。年々戦争体験者も高齢化し、関心も薄れ風化して来ている。今回、8月の講演にあたって、60期の三島佑一先生の「北野の暗黒 時代…戦火をくぐった精神遍歴」なる演題に接し、これは剋目に値するものであると感じ、関係者は急いで広報活動されたようである。当日、六稜OB,OGは 50名(内約30名程が戦争体験者で、60期生は14名)、地元ミニコミ紙、チラシ等からの情報で一般から20名の参加があり、計70名の参加となった。
当時を理解するためには、先ず三島先生が北野中学に入学された昭和17年4月から卒業の昭和22年3月までの日本の国内外の実情を把握する必要がある。
●昭和12年より続いていた泥沼のような日中戦争の目途も立たない時代に、予想はされていたが、昭和16年12月に大東亜戦争が勃発し、緒戦は連戦戦勝で あったが、開戦後僅か4ヶ月後、早くも昭和17年4月18日に、全く予想外の空母を発進した【ドーリトルB-25爆撃機隊】16機による本土空襲に、全国 民は驚愕したものである。軍部もまさかの空襲に、急遽「ミッドウェー島」の攻略占領作戦を実行したものの失敗し、大敗北をきした。勿論国民には知らされな かった。これが昭和17年6月であり、今回講演のチラシに掲載されている60期生の高野山における集合写真は、丁度この直後の夏時分時局のものであろう。
この写真は、当時憧れの“北中生の学帽、学生服、白ゲートル姿”では無く、多分「スフの国防色の学生服の戦闘帽姿」には些か、驚かされた。この出で立ちには、生徒達も落胆したようである。当時の学生服のボタンは瀬戸物製もあった。
当時の国民は、明治23年制定の“…一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ”という【教育勅語】に よって精神的に徹底的に教育されており、男子学生には二十歳になれば【徴兵検査】が待ち受けていた。学校には配属将校が派遣されており、三島先生の講演の 中にも「自分の人生は二十歳で終る」とありましたが、正にその通りであり、何れは国家の為に命を捧げるものと覚悟していたものである。
肉体的にひ弱な先生が成績優秀の為、2年生となれば級長となり、軍事教練も自分がリーダーとなって号令を掛けなければならない、という最も苦手の重責任に 打ち負かされそうになった、と仰っておられた悲壮な姿が目に浮かぶ。校外においても【教護連盟】なる組織があり、徹底的に生徒の私生活を監視しており、実 に陰鬱な中学時代であったであろう。
この昭和18年になると、戦局は益々不利となり、ソロモン諸島における【ガタルカナル島】の攻防に端を発した軍備、兵力の大消耗戦に突入し、この年の秋に は【学徒動員令】が発動され、学生もいよいよ戦場へ駆り出されることになった。もはや、学舎での勉学は二の次となり、軍需工場や屋外の肉体労働に次々と駆 り出されていった。
60期生は、軍需工場勤務とはならず、服部緑地、八尾空港、高槻、和歌山など各地の畑、防空壕、家屋の撤収等の肉体労働に従事する事となる。昭和19年夏 となると、マリアナ諸島の【サイパン、テニヤン、グァム】も次々と陥落、学校での勉学とは無縁になって行った。疎開が始まった。この年の秋には、フィリピ ン戦線では、初めて【神風特攻】が始まった。
昭和20年3月14日から始まる大阪大空襲によって大阪の大部分は灰燼に帰した。この空襲中には、B-29も市内に撃墜され、搭乗員の遺体をなぶり物にす る事もあり、人の道を外れることもあったようであるが、先生の父親は「敵兵といえども、もう仏となっておられる…」とそれを戒められた。それが戦争という ものかも知れない。
この時期に、太平洋上の日本本土の【硫黄島】に米軍上陸、そして4月には【沖縄】に上陸が始まった。これ以後は、マリアナ基地よりのB-29の連日の爆弾、焼夷弾の無差別爆撃と日本近海に遊弋する多数の空母よりの艦載機等の機銃掃射の毎日となる。
船場、道修町の先生の自宅も、昭和20年6月15日の空襲で焼失。先生も近江八幡へ疎開、八日市中学へ転校され、北野中とは縁切れとなり、そこでつかの間 の安堵感を得ることとなる。ここで驚いたのは、この田舎の中学の方が勉学が進んでいた、という事実である。ここでは余り勤労動員も無かったようである。
●果てしなき戦いも、遂に本土への二発の原爆投下により、多数の犠牲者の上に、遂に「ご聖断」が下り、“…時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス…”となった。
かくて我が国は、米国を中心とする連合国の支配する、三等国扱いの国家に成り下がってしまった。国家権力が音を立てて瓦解し、あの強大な陸海軍が消滅し、海外の全植民地も無くなった。
この終戦、敗戦を機に、我が国の政治、経済、教育等全てが天地動転の大転換をなす事になる。学校教育科目から修身、歴史、地理という科目が無くなった。昨 日まで、毎朝の朝礼で、我が国は神国です、絶対に不滅です…と言っていた教育者が、突然180度反対の方向を向いた「民主主義教育」を説き始め、何を信用 して良いのやら、実際面食らった時代であった。
北野中でも、修身、歴史教育は廃止となり、校長先生によって新約聖書が教材になったとか…。これまでと正反対の【山上の垂訓】とか、聖書の中のヨハネ福音 書の一部の【罪なき者は石もて打て】等の教を説かれたそうです。三島先生は些か戸惑いながら当時の事を語られていたようす。
この講演を聴いた時、直ぐに脳裏をかすめたのは、筆者が昭和29年3月に卒業する寸前の国語の最後の授業で、今は亡き【雫石鉱吉先生】が、我々生徒に餞の言葉として大変静かな口調で【極東国際裁判】は大変問題で、大きな禍根を残すであろう…と語られたことである。 講和条約発効間無くの時期でもあり、あのもの静かで温厚そうな先生の口から漏れた、この言葉は終生脳裡から離れないものであった。当時、それはインドのパール判事の言葉か、国際法に関する事だろう、とは想像はついたが、先生は、具体的には何も発言され無かった。
今回、三島先生の講演を通して【石もて打て】の言葉が出た時、この時の感情が脳裏を掠めた。短い聖書の言葉であるが、歴史的に大変意味深い問題を包含していると感じた。
我々の年代は国家権力というものを一歩引き下がって冷静な目で眺めることが出来るようになった。
今の若い年代の方々に切望する。教科書で教えない【日本の近現代史】を是非独学で結構です、学んで下さい。
先生も話されておられた様に、負けるとは思っていなかった…と。 船場、道修町に生まれ育った「ぼんぼん」の三島佑一先生が、家業の薬屋の跡取りを強いられながら、北野中学に進み、運悪く戦争という暗黒時代に遭遇し、彷徨いながら、遂に終戦を迎え、家業を捨て、やっと自分本来の文学の道に入ることが出来たという葛藤の歴史である。
船場という街は出来るだけ己という物を小さく見せなければならず「良賈ハ深ク蔵シテ虚シキガ如ク、君子ハ盛徳アリテ容貌愚ナルガ如シ」の世界で、己を虚しくして生きることの苦労を具現させた生き様である。
正に、戦争という悪夢の中での青春時代を過ごし、何か分らないが文学の中に光明のようなものを見通せるようになったのかも知れせん。 先生とは、近年谷崎の「芦刈」等を通じて交流が始まり、その後老荘思想等の哲学等を通して『異次元世界』の分野に至る、先生の脳内に渦巻いている高遠な宇宙観と摩訶不思議なお付き合いになっている。 今後も「船場おおさかを語る会」等でのお付き合いを希う次第であります。
●最後に歴史というものについて、ドイツ大統領、ヴァイツゼッカーの言葉を記す。
「自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場『なぜそこにいるのか』が理解できません。そして過去を否定する人は、過去を繰り返す危険にさら されているのです。歴史は重荷になってはならない。我々の精神を啓発するものなのである。心に刻んで記憶する行為は、大きな努力が必要である。明るい過去 も、暗い過去も、全て責任もって受け入れる