絵:大阪府小学校国語科教育研究会編 『大阪のむかし話』(株)日本標準(1978)より |
松村 博
(74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)
大阪育ちの人なら「長柄の人柱」の話を一度はお聞きになったことがあるでしょう。そして親から「そやから人前ではいらんことは言わんほうがええんや」という処世訓を吹き込まれたことがあると思います。人柱の話にはいろいろな形のものがありますが、これが説話の特徴でもあります。『摂陽群談』におよそ次のような話がのせられています。
長柄橋の架設は非常な難工事で、人柱がなくては完成しないような状態でした。このことを土地の長者・巌氏【いわうじ】に相談したところ、「継ぎのある袴をはいている人を人柱にすればうまくいくだろう」と提案しました。ところがよく調べてみると、不幸にも巌氏の袴に継ぎがあったため、人身御供として水底に埋められてしまいました。
巌氏には美しい一人娘の光照前【てるひのまえ】がありました。請われて河内国交野郡禁野の地(現在の枚方市禁野本町付近)へ嫁ぎますが、全く物を言わないので実家へ帰されることになってしまいます。夫に送られて帰る途中、雉子が鳴いたのを聞きつけた夫がそれを射止めました。これを見ていた彼女は上に挙げた歌を口にします。物が言えることを知った夫はたいへん喜び、二人して禁野へ帰りました。のちに光照前は父の菩提を弔うために尼になったということです。
長柄橋にまつわる人柱の物語はいろいろと形を変え、平安時代末には畿内ばかりでなく、広く全国に広がり、語りつがれるようになっていたようです。