われら六稜人【第44回】平和構築の現場で

コソボ周辺地図 第3幕
コソボ紛争

まずコソボの概要についてざっくりとお話いたしますと、コソボはセルビア共和国の南の方に位置する人口約200万人、岐阜県ぐらいの大きさの自治州です。住民の約9割がアルバニア系ということもあって、昔から独立志向の強い土地でした。9割の住民が独立を望んでいるのだから独立させてあげればいいではないか、というのが我々第三者の心情的な感想かも知れませんが、ところが現地の事情はもう少し複雑なんですね。
まず、コソボの隣にはアルバニアという国がありまして、そこにも約300万人のアルバニア人が住んでいます。つまり、コソボがアルバニア人を中心とする国として独立すると、同じ地域にふたつのアルバニア人国家ができてしまうという、あまり世界でも例のない状況になってしまいます。これがまず1点。
それからこのコソボという地域は中世セルビア王国の中心地でしたので、セルビアの文化遺産が数多く残っています。私もいくつか訪れましたが、中世に建てられた東方正教の教会などは世界遺産にもなっていて歴史を感じさせます。つまりセルビア人にとってのコソボとは、日本人にとっての奈良や京都に相当する精神的な意味合いを持っているのだということが分かります。
さらに、そのコソボの平原で14世紀に、南からバルカン半島に侵入してきたオスマントルコ軍と中世セルビア王国を中心とするキリスト教連合軍が戦って、これをコソボの戦いと言いますが、これに勝利したオスマントルコが以降500年間に渡ってバルカン半島のほとんどの地域を支配して、セルビア王国は消滅してしまうという、セルビア民族にとっては屈辱の地でもあるのですね。そのような経緯で、コソボはある種の特別な感情をセルビア民族の心に呼び起こす場所となっています。これが2点目です。

そのようなコソボを穏便に支配するために、オスマントルコはコソボの非セルビア化に取り組みます。具体的には、キリスト教からイスラム教への改宗を受け入れたアルバニア人のコソボへの入植を進めたのです。その結果セルビア人は徐々に北上し、コソボはアルバニア人が多数を占めるようになり、現在に至っています。一方、コソボで生まれたアルバニア人ももう何世代もコソボに住んでいる訳ですから、自分たちの土地であるという意識はもちろん強いです、というのが極めてざっくりとした歴史的な経緯です。ただし、これは結構教科書的なストーリーで、史実がはっきりしている中世以降での話です。
では中世セルビア王国以前は誰がコソボの辺りに住んでいたのか。それはアルバニア人の祖先とされているイリリア人という人たちであるという説があります。そこにスラブ人であるセルビア人が6、7世紀ごろに北の方から降りてきて我々を追い出したのだ、だからコソボはもともとアルバニア人の土地だ、という言い分も成立します。ただイリリア人に関しては歴史上の記録がほとんど残っていなくて、はっきりしたことが分からないようなのです。イリリア人以前はケルト人がその辺りに住んでいたとする説もあるようですので、アイルランド人なども手を挙げる権利があるのかも知れません。このように、その土地が誰に属しているのかという問いは、歴史的というよりは政治的なものであると言えるのかも知れません。

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