早大総長室にて(1966) |
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社会部記者
- 東京新聞にいた尾崎宏次という人が『パッカードに乗った石松』という本を書いていますが、新聞記者というのはやくざっぽいところがあるが、しかし外車に 乗って走り回ってるということですね。あのころサツまわりをしまして、新聞社の借り上げハイヤーに乗りまして、警察を3つずつくらい持ちまして、夕刊が終 わるまでその車を乗り回すのです。それは朝日と毎日だけでね、読売・産経は車はないんですよ、その当時はね。それで、一緒に乗せてくれということになるん ですよ(笑)。そのかわり、むこうは人海作戦で、こっちが1人のところ3人ぐらいいるんです。あるとき、僕がデスクにいまして電話とりましたら、西区の交差点で衝突事故があるというんで、あそこやったら電車で行けるなと思ってそういうたら、バカな こというな言われましたね。あのころ昭和27、8年でサツまわりの一人が1日で使う車代が約三千円、大変な金ですよ。まだ国産車のない時代でした。で、そ のころ警察署も車がないんですよ。大阪市内の各区の警察署にだいたい署長車というか乗用車が1台、ジープが1台、それくらい。僕は福島警察署によく行った のですが、淀川大橋でよく交通事故があるんですね、そしたら交通係の巡査は自転車で行くんです。こっちは車がある。乗っとったら「乗してくださいな」とな るんですな(笑)。「どうぞ」という感じで、そのかわり、こっちが交通違反したら「ちょっと破っとけよ」と(笑)。 そういうことが許された時代でした。今、警察はどんだけカネ持ってますか。その当時のことを思えば、見えないところにいっぱいカネ持ってます。
そのころ、大阪にも警視庁がありまして、大阪城の中にあったんです。今、市立博物館になっていますが、昔、師団があったところです。警視総監も東京と大阪 と日本に2人いたんです。私が警視庁を担当していたとき、のちに警視総監から大臣になった秦野章さんが刑事部長でしたね。そのときに片岡誠さん(50期) という北野卒の方が33歳で警務課長をしていました。
一回、殺人犯と話をしたことがあります。タクシーの運転手を殺して大和川の橋の上からドボンとほりこんで、そのまま車を奪って逃げたんですね、和歌山に。 何かから立ち回り先がわかったんで、和歌山の支局がそこを捜して大阪の住所がわかった。それが動物園前で、そこに行けいうんで行ったらいましてね、最初は わからなかったんですが、取材していて、だんだん本人だということがわかってきて、それで朝までずっと話を続けたんです。相手も観念したんですな。朝に なってようやく警察が来てくれたんで、ほっとしましたな。それは死刑になりました。このことで「逮捕前何時間」というような記事を書きました。 毎日新聞 社には北野の先輩が何人もおられまして、みなさん、しっかりした方たちばかりでしたね。
Update : Jun.23,2001