われら六稜人【第43回】メディアの人…報道の現場を歩んで

旧制北野中学2年6組

第1頁
旧制最後の学年

    愛珠幼稚園、愛日小学校を出ました。愛日小学校はわりあいたくさん北野に入りました。中学行くいうたら北野へ行くゆうことで、昭和18年に入りました。僕 らのときは内申書ですよ。ペーパーテストはなかったんです。それと口頭試問だけですね。それで20人近く通ったんです。一番多かった。曾根崎小学校が次 やったかな。で、2年終わって陸軍幼年学校に行きました。それはあのころの流行みたいなもんで。山中峯太郎ってご存知ですか、『敵中横断三百里』を書いた人ですが、彼 は天王寺中学から大阪陸軍幼年学校に行った人。その同じ幼年学校に行ったのですが、そこでは英語は教えなくて、ロシア語とフランス語とドイツ語があったん です。僕はロシア語のクラスに入ったんですが、その先生が北野の卒業生でした。僕は知らなかったんですが、あるときクラスの生徒が騒いだので先生が怒った んですよ。そして、僕に「北野中学はこんなことないよ」と言うのでびっくりしたんです。どこの中学から来たか知ってたんですな。その先生の名前は残念なが ら忘れましたが。

    1学期だけ幼年学校にいただけで終戦になり、北野に3年の2学期に戻って、これは復校、復学いうのかな。 だから試験もなしで。大阪の幼年学校に行ったのは3人でしたが、幼年学校は全国に6つありましたから、それらに行っていた人も戻ってきました。我々の上級 生で兵学校や士官学校に行ってた人も帰ってきましたが、そういう人は中学校卒業して行っていますから、高等学校に編入されましたね。試験あったと思います けどね。

    4年生を終わりまして、大阪高等学校に入りました。高等学校は年齢がばらばらでしたよ。兵学校から戻って我々と同じ学年になったり、台湾とかの植民地の高 等学校から引き上げてきた人たちもいましたし。それが我々世代の特徴ですね。我々は旧制と新制の分かれ目の時に当たっていて、北野中学も卒業後に新制高校 になったし、高等学校も最後のとき、大学も旧制の最後でした。
    大学は、阪大と京大とどっちにも行ってたんですね。ほんとはあかんのかもしれないんやけど(笑)。あのころ旧制の最後ですから、とにかく押し込めなあかん のです。旧制高等学校は旧帝大行く人がほとんどです。東大と京大が1期校、大阪大学と名古屋大学、九州大学と北海道大学が2期校やったんですな。どっちか に入れいうことです。入れない人にはさらに救済策がありまして、臨時編入いうのがあったんです。だからみんな何かの形でどっかに入ったんです。で、私は1 期京都大学の試験受けて、2期阪大の試験受けて、順番に合格通知きたんですけど、両方手続きしたれと思て(笑)。

    京都大学は文学部哲学科美学美術史、大阪大学は法経学部の、今は法と経と別れていますが、法学科。2つちょっと違うことを、できたらやろかと。先生はかけ もちして教えてはるんやから、学生がかけもちしてもいいんやないかと勝手な理屈で。要するに時差をつければいいんですよ(笑)。金森前阪大総長とは高等学 校で同級なんですが、そんな話しとったら、「いや、阪大の学生で物理の先生に<お前、京大のここへ行け>言われて、ちゃんと手続きして行っとったもんおる で」と言うてくれたんで、僕も安心したんですけど。なんせ混乱期やったからね。旧制大学は単位制じゃないしね。ただ、ゼミがありますけどね。僕はどっちも 行かなかったに等しいのですよ。両方行ったようにいうけど、両方行ってないんです(笑)。

    北野栄三さんの高校時代の写真 北野栄三さんの現在の写真

Update : Jun.23,2001

ログイン