われら六稜人【第42回】ワタシガラッキー

和太さんの現在の写真和太さんの高校時代の写真 一の窯 京都市立美術大学

    1944年に兵庫県西宮市で生まれました。小、中学校では陶芸など考えもしなかったのです。大阪学芸大学付属池田中学校から北野高校に入りました。高校時 代は60年安保の頃で何となく落ち着かない状態でした。3年生の秋、親知らずが痛くなって行った歯医者で、その医者も暇だったのでしょうね、通う度にいろ いろな話をするようになりました。ある時たまたま待合室に置かれていた、ピカソ展が特集されていたグラフ誌から絵の話になって「君はひょっとしたらそっち の方に向いているかも。」と言われました。


    北野高校3年生のとき

    子供の頃、絵を描くのは好きでしたが、それを将来のこととか仕事だとかに結びつけて考えたことはただの一度もなかったし、そのための学校があることも知ら なかったのです。調べてみたら京都市立美術大学というのがあったので入試資料を取り寄せたのです。その受験要綱には「美」を図案化した校章が載っていてと ても気に入りましたね。後でそれは富本憲吉先生のデザインだと知ったのですが…。そこには私にとって変なものと思われた陶磁器専攻というのがあって、だれ がこんな所に行くのだろうと好奇心で受けたら通ってしまったんです。こんな風にいくとは思わなかった。当時大学で陶器の専攻というのがあったのは京都美大 だけで、東京藝大にもまだなかったのです。京都の美大に入っちゃったら、そこに富本憲吉先生がおられたわけです。「この人かっこいい!」とただそれだけでしたね。富本憲吉先生は私が入学した翌年 1963年に亡くなられたので最晩年に一瞬すれ違ったような出会いでしたが、私にとって余りにも大きい存在でした。


    大学を出たころ

    今、陶芸を教えている学校はいっぱいあって、陶器はこうやります…というカリキュラムができていて、技術はみんな身につけていて大体の事は知っている。で もどれも武器になっていない、昔のどこかにあった感性をうまくとってくる。しかしその人からにじみでてくるようなものは薄いところがあるんですよ、今の人 は。昔は弟子に入って特に何か教えてもらうわけではないけど、自分で何かをつかみとるみたいなところがありましたが。京都の美大も当時としてはそこだけ陶芸の カリキュラムもあり、いい先生もおられたけれど、その人から直接何か習ったとか特に教えてもらった記憶はありません。上を仰ぎ見るような北極星みたいなものがあって、その下でワアワアやりながらお互いに切磋琢磨してましたね。あれはああやるらしいぞ、これをやるにはどう したらいいんだろう…とね。今は最初にこれはこうやるんですよ、と教えられるからその範囲は知っているけれど深くなっていかない。昔に比べれば今の展覧会 なんかみるとバリエーションは非常に多いですけれどね。 どういう生き方がよいか一概に言えないですね。例えば笠間の隣の益子を有名にした濱田庄司さんは、柳宗悦さんとともに民芸運動にかかわったわけです。作為ではなくて、意識じゃなくて自分を無にして作業 するというか、芸術じゃなく職人の仕事としていいものができるんだ、という論理で多くの人をひっぱっていったのですが、結果としてその流れの上で作家に なった。彼は作品にサインをしないのですが、何故しないのか?と聞かれて、冗談かもしれないけれど「自分がサインしないと、民芸の中で見倣って同じように サインしない人が出てくるだろう。そうしたら何十年か後になって、その中からセレクトされてその中でいいものが私の物と言われるだろう」と言ったとか… 濱田さんのちゃめっ気で、したたかな人間性には魅力がありました。


    濱田庄司

    柳 宗悦

    富本憲吉
    ●出典濱田庄司:日本民藝館「濱田庄司」より柳 宗悦:日本民藝館「柳宗悦の生涯」より (写真提供:日本民藝館) 富本憲吉:奈良県「奈良を作った人々」より (写真提供:富本憲吉記念館)

    京都美大で私の主任教授だった富本憲吉さんは、柳宗悦さんらと親交はあったが、民芸運動には反発して違う世界に行った。でも今の清水焼のデザインの相当の 部分に、富本さんがやりだしたクセや調子が出ています。濱田さんがやろうとして出来なかったことを、逆に富本さんはやらないでおこうとしながら、やってし まったところがあるわけです。だから陶芸家の卵である人に対しても、どうやっていったらいいかと言うことは難しいですね。やっている仕事の性格によって違 うので。 伝統的に手堅くやっている方もいれば、私のようにそうではない生き方もあるわけですから。

Update : May.23,2001

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