第3話
断郊競走で培った粘り
- 僕はどちらかといいますと体が弱かった所為で走るのが非常に遅かった。したがって、運動会とか体育会とかは一番ビリのほうを走っておりました。これも僕の 友達から「手塚君、一番ビリでもいいから最後まで走れや。最後まで走っているうちに、そのうち前の奴がだんだん疲れてきて遅れるから一人ぐらい抜けるかわ からん。ともかく最後まで走れよ」と言われまして、それから走ることの勉強をいたしました。
僕は非常に要領が悪い所為かスタートが悪いんです。だいたい3秒くらい遅れて走り出すんです。だから100メートル走なんてもう始めっから3秒上乗せされ るんですから絶対勝つ見込みはない。ところがマラソンになりますと3秒くらいの差でしたらテクテク走っているうちに、とにかく前の奴が落伍して…まあ、一 人くらいは抜ける。そういう意味で、とにかく馬力を上げてゆっくり走る。その代わりうんとコース距離を長く走ってみるという練習をいたしまして、お陰さま でマラソンではかなり自信が持てるようになりました。
その頃、北野では「断郊競走」といいまして…今でもあるんかな…そこの堤防をズーッと向こうまで走って行くわけです。確か全校生徒だったか、あるいは上級 生だけだったですか。とにかく全員が断郊競走に出なければならない。全員でどっと走り出しまして、こっちの堤防から向こうの堤防へ回りまして、それから十 三大橋からここへ戻ってくる。ここの校庭に来たところでゲートインで…どれくらいの距離になりますかね。そういうマラソンを毎年1回やっていたわけです。 僕はマラソンに自信をつけてから出ましたから、なんとベスト10の中に入ったわけです。この時は僕も本当にうれしかった。
それまではもう何もできなくって「僕は駄目だ駄目だ」と思っていたところが、断郊競走で…それまで一番不得手だった体育で賞状をもらったわけです。これは 本当にうれしかったですね。これは「粘りさえあれば何でも出来るなあ」という気がしたわけです。
とにかく僕の場合は小さいということと体が弱かったということで、はっきり言ってろくな兵隊にもならないだろう。ろくな大人にならないだろうから、しょう がないから昆虫でも採ろうという気になったくらいなんですから。その断郊競走で勝ったということで自信ができたわけです。
それともうひとつ、番長にマンガを認められたということ。教練の教官にも「お前はもう、しょうがない」と諦められた…そんなこんなでマンガが自由に描ける ようになった、ということからまた自信がつきました。この二つでですね。とにかく何とかコンプレックスを乗り越えてやろうと、子供ながらに思ったわけで す。
マラソンは今はもう駄目でありまして、お腹が出てまいりましたので転んでばっかりおります。もう走れませんが、このマラソンの影響が何にプラスされている かといいますと、僕の粘りであります。僕は、何でもかんでも、とにかく最後まで粘らなければ気が済まないのです。もう無理だと思いながらも最後まで粘るわ けです。
僕がマンガを描きだしましてから、全国的にマンガブームになりました。マンガ家がずーっと増えました。そして、仕事の量も大分増えたわけなんですが、僕ほ ど徹夜を続けてマンガを描ける人間はいないそうでありまして「手塚は化け物だ」とか色々言われております(笑)。今でも5日くらいは徹夜できるわけです が、さすがに5日目くらいになりますと、もう目の前が真っ暗になりまして、ある出版社の原稿を描いておりましたら、その次に描く出版社の原稿と間違えて描 いておりまして、途中から話が全然合わないんですね(笑)。
そういうこともあるんですが、今でも、それくらいの粘りはできます。この粘りは決してマンガ家になってから培われたんじゃなしに、やっぱり、中学・高校時 代の粘りが何かでプラスになっているわけですね。そういうプラスが若い頃の鍛錬で可能になるわけです。
Update : Jan.23,2001