われら六稜人【第36回】漢字に魅せられて…漢字学の楽しみ


初期のワープロは「日本語電子タイプ
ライタ」と呼ばれていた(1980年頃)
提供:富士通、神田泰典氏

第六画

漢字とコンピュータが切っても切れない理由

    戦後しばらくの間「漢字は遅れた文字だ」という認識があって、やれ「当用漢字」だ「常用漢字」だといろいろ制限されてきました。漢字が制限された一番大きな原因は、機械で書けない文字だということでしょうね。
    欧米にはタイプライターという道具があって、社長がしゃべるスピードで秘書がタイプを打つ。社長がしゃべり終わった瞬間、それがきれいな活字の文書とな る。しかしこれが日本では不可能である。伊藤忠の伊藤忠兵衛さんが1920年代にロンドンに行ってタイプライターを見てびっくりし「こんな国とまともに商 売するのだったら、いつまでも大福帳に毛筆で字を書いていてはだめだ」と考えた。それで伊藤忠はずっと(つい十年ほど前まで?)社内では一切漢字を使わな いシステムを使っていたそうです。機械で書けない限り、漢字は現代社会に太刀打ちできないと思われていたのが、ワープロ・パソコンを中心とするコンピュータ技術の進歩で、今では6,000 以上もの漢字が機械で使えます。漢字は覚えるのも書くのも大変だし、機械で書けないやっかいな文字とされていたのが、機械で書けるようになると、字形は機 械が書いてくれるから、私たちは読み方だけを覚えればいい。 機械の使い方を覚えたら、漢字を手で書く必要はない。それがいいことなのかどうかは別として、現象として漢字を使いこなす苦労はかなり軽減されたのです。 そうすると非常に便利に使える文字なんですね。

    これから先の日本の発展の中にコンピュータが非常に大きな位置を占めることはまちがいないでしょうね。現在のコンピュータですでに6,355字のJIS漢字を処理できる。あるいはunicodeが採用されれば約2万字ほど使えるようになります。
    これから先、この字数が減っていくことはおそらくありえない。するとこれからの漢字の運命は、コンピュータと一蓮托生と言ってよいでしょうね。だからこ そ、私は伝統的な古い文字をやっていながら、コンピュータをずっと勉強しています。21世紀の漢字研究ではコンピュータを決して忘れてはいけないと思いま す。

    とはいえ、現時点での問題点もある。今のJISでは使えない漢字があるのです。異体字の問題。よくいわれるのは森鴎外の字についてですが、鴎外のカモメと いう字が1983年の改訂で「シナカモメ」から「メカモメ」に変わった。それがけしからん、と文芸家協会あたりがワァワァ言うようになってきました。
    JISの改訂なんて一部の人間しか知らなかったからカモメがどうなっていようと多くの人は関心をもたなかったのに、昨今では非常にたくさんの人がパソコ ン・ワープロを使うようになったため、問題が浮かび上がってきたのです。特に作家や物書き連中がパソコン・ワープロで作品を書くようになって、「鴎」の字 がクローズアップされてきた。亡くなった江藤淳さんとか文芸家協会の人がこれを問題にして、常用漢字に入っていない漢字の標準化を国としてやれということ になってきました。
    常用漢字は文部省の訓令で制定されていますから規範的な字体が決まっていますが、常用漢字に入っていない漢字について、例えばカモメという字はこれが標準 なんだということを決める仕事が国語審議会の仕事に降りてきたわけです。私は第22期国語審議会のメンバーとして、常用漢字に入っていない漢字の標準字体 を定める仕事に従事してきました。この仕事はかなり大変でしたが、やっと一段落ついて、この12月8日(平成12年)に最終答申を文部大臣に出すことに なっています。

    名前に使う漢字にも、こだわる人がたくさんいますね。私なんか「辻」のシンニュウの点が一つでも二つでも、どちらでもかまいませんけどねぇ。平成2年でし たか、法務省が戸籍を電算化するにあたって、140の文字について特別の規定を設けています。いろいろうるさいことが決まっていて、たとえば「高」という 字にもハシゴタカとクチダカがありますでしょ。現在の姓で「ハシゴタカ」を使っている人が、これから先は「クチダカ」にしてください…ということは認めら れるんですが、逆に現在クチダカの人が戸籍をハシゴタカにしたいということは認められないのです。

    今の日本の漢字を巡る問題は、常用漢字が文部省で、JISが通産省、戸籍に使う名前の漢字は法務省、その3つが綱引きをしている。特に戸籍の名前とコン ピュータの問題を扱うと必ずそこに引っかかります。ワタナベの「ベ」の字は、「辺」だけでなく「邊」や「邉」など…あれは30種ほどあるそうですね。
    よく「筆順」とかが小学校の試験問題に出ますが、あれだって公的に決まったものは何一つないのです。筆順とか、はねる/はねないとか…そういうことをうる さくいうから子供が漢字嫌いになるんですよ。もっと楽しく漢字を学んでほしいなぁ、と専門家の立場からは思いますけどね。漢字は意志の伝達をするもので、 そんなカチッとしたもんでないことを教えてやったらいいと思うんですけどねえ。

    かつての中国では、漢字の字形は「科挙」という試験の受験者と採点のために唐代で整備され、その最終の到達点が清の『康煕字典』だったわけです。それが今 の日本でも漢字の規範として使われているのですが、しかし昔の「科挙」のための基準を、そのまま現代の日本の基準に持ってくることは、ほんとはとんでもな い話なんですよね。でもそれじゃ、『康煕字典』をはずしてしまったら規範として何があるのか。何もない。それでしかたないから『康煕字典』を使ってるんで すが、実際は統一基準を設けようとすることがおかしいといえますね。
    私はよくハレの字とケの字というのですが、かつての規範も、科挙を受けるとか経書を読むというハレの場で基準を設けているわけで、それを当時の国民全部が 使っているわけではない。実際にはケの世界もある。ちなみに今回の国語審議会の答申は印刷文字に限っており、手書きの文字には一切触れていません。手書き の文化は権力で規制できるものではないし、またするべきでもありませんからね。

Update : Oct.23,2000

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