第1幕
晩生の少年時代
- 僕が北野にいた時の出来事で一番印象深いのは2・26事件。中学1年生だった。漢文の先生が広田種三郎といって…(僕らはヒロスケ、ヒロスケって呼んでたんだけど)…彼が入ってきて「今日は東京でえらい事件が起きた。雪の降り積もる警視庁の前で、反乱軍が立て籠って大変なんダ。」ということをえらく深刻に話されてね。
僕はそんなこと全然関心もなくて興味もなかったから「へぇ。何だろう」くらいにしか思わなかったけれど、今から思うとそれが2・26事件だった。それから世の中がだんだん右のほうに片寄っていく…そんな時代に中学を5年間過ごしたわけです。
だけど僕自身の中学生時代は、なんて言うか、善いこともしなければ悪いこともしなかったし…もう平々凡々でね。真面目というより、発育が遅れとったという感じ。今でもそう思うけど、晩生もいいとこでね。
コゼキとかオゼキとかいう…修身か倫理の先生で、ベートーヴェンの「第五」の話ばっかりする人がいてね。先生は独りで興奮してんだけど、そんなの聞いても僕は「軍艦マーチ」とか「トルコ行進曲」とか…あんなものが面白いというような知能程度だった。
それで何をやってたかというと、当時は「絵画研究会」といったんだけど…(今は「美術部」かな)…そこで絵を描いてたの。岡島吉郎って先生いるでしょ。アダ名が「ねーちゃん」。彼は歩く時、尻をこう突き出して歩くんですよ。女の子みたいにね。それで「ねーちゃん」。
その岡島先生に習って油絵を描いてたわけ。中学時代の思い出といったら、だいたいそんなもんかな。
三高へ行ってからは随分、世の中がひどくなったけどね。僕が北野の時代はまだ…だって昭和16年に戦争が始まったんだ。僕が北野を卒業したのは昭和15年ですからね、だから戦争前。マントクとかチントクとか…特務曹長みたいなのが次々来てたね。万年特務曹長でマントク。チントクはちょっと足を悪くされていてチントク。そういうのが来て教練を担当してた。
でも、マントクは非常に面白い先生でね。教練だとは言いながら、ちょっと訓練みたいなことをすると、すぐ木陰に入って休憩で…いろんな面白い話をしてくれたんですよ。だから当時はまだそれほどの軍国主義でもなかったんだ。
招集を受けて軍隊へ入り、満州かなんかへ行って帰ってきたような先生が、軍隊時代のいろんな自慢話をしてくれる…まぁ、当時の僕らが受けた軍国主義教育と いえば、せいぜいそんな程度だった。講堂にみんな集められてシナと戦った話とか…(当時は中国のことをシナと言っとったんだな)…そんな話を聞かされたぐ らいでね。
もちろん、陸士や海兵に行った奴だとか1年生や2年生で幼年学校へ行ってしまったような奴等が、こんなパーっとした格好いい制服を着てやって来てね。そし て僕らに説教したり…そんなのもいましたよ。北野は今も伝統としてそうだろうと思うけど、わりあい自由な雰囲気だったような気がしますね。軍国主義バリバ リでもなければ、軟派の不良でもない。軍国主義も軟派も居てもいい。そんな気風でしたね。
何しろ一学年300人いましたから。卒業するまで全然、口もきかなかった奴もいるでしょうね。探せば、きっと。成績もね、僕はそんなにデキるほうじゃなかったンだ。3年生ぐらいまではね。4年生になって急にカベツキになったんです。自分でも分からないんだけど…先 生が「中江、なんでお前は急にこんなにできるようになったんだ」って…そんなこと言われたって分かんないよね。僕は普通にやってただけで。
やっぱり晩生だったんですね。発育が遅いんですよ(笑)。3年生か4年生ぐらいになって、ようやく、みんなのやってることがわかってきた。それでクラスで10番前後になったのかな。
でもね。ずーっと級長だ副級長だなんていう奴は、僕らとは人種が違うんですよ。外務省にも北野中学時代の級友が二人いるんだけど…彼等に今から言うと怒るンだけどさ…中学時代はもう口もききたくなくてね(笑)。そういう奴はいましたけどね。
当時は「4修」といって、デキる奴は4年生で修了して入学試験に受かると高等学校に進むことができたんです。今でいう「飛び級」ってやつ。そういう制度が あった。外交官試験もそう。大学を卒業してなくても試験にさえ受かれば、それで入省できた。だから僕の級友たちは中学も大学もろくに卒業しとらんのです よ、あれは(笑)。
僕はね、両方ともきちっと規則正しく卒業して入っとるから…おかげで外務省では2期遅れてるわけだけど(笑)…ちゃんと卒業証書もらってるわけ。そういうことがあったんだな昔は。
ともかく晩生の僕もカベツキになった頃から模擬試験なんかでも割合成績がよくて、それで何とか三高に受かったわけですよ。
Update : Jan.23,1998