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マナスル初登頂を導いた男
- ボクらが人形峠で、小鴨鉱山でワァワァやっている頃、南極の話が起きるんです。どういうことかといいますとね。ボクも日本山岳会に顔出したり、友達がマナスルに行くのを一生懸命手伝ったりしていたわけです。
ボクは、どちらかというとマナスルに行き損ねたクチです(笑)。北大の人も何人かやったけども、主として京大と慶応、それに日本山岳会がやっていたわけですね。京都大学の西堀栄三郎さんってのが中心になって…この人がその後、南極に関係していくんです。西堀さんはマナスル登頂の許可を自分自身で個人的にネパールへ行って取ってくるんです。そういうのが凄く好きな人だった。この時の話って…すごく面白いのでちょっと脱線しますとね。ボクの話でなくて西堀さんの話なんだけど。
彼は東芝に勤めて、真空管制御の研究を一所懸命やってたわけです。それで、遂に統計学の『デニング賞』というのを貰うんです。その受賞式の帰りに、彼は密かにネパールへ飛ぶんです、黙ってね(笑)。
ネパールはその当時、鎖国状態でね。外国人を受け入れない。それで各国の登山隊が許可をとるのに物凄く狙ってる時期だったんです。日本も何度か試みたんで すけど、なかなか許可が降りない。それで西堀さんがネパールへ飛んで、カトマンズーで飛行場に降りるとね。案の定、捕まるわけだけども…官憲にね。「お 前、誰だ?」「西堀栄三郎ってんだ」ってね。「何しに来た?」「誰だれに会いたい」こういう調子でね。
当時、家庭工業大臣っていう位があって…そのクリシュナ氏(だったかな?)に「逢いに来たんだ」って言って。その人に連絡取って貰ったんだって。そしたら クリシュナ氏が飛んで来て「西堀先生!」って。実は以前、氏が日本に留学して天理大に行ってた頃…ネパールの要人だってことで西堀さんが自宅に下宿させて たわけです。用意周到というか…隙が無いね(笑)
それで、その家庭工業大臣を呼び出して「何しに来られましたか?」「お前に会いに来た」って(笑)。それで、このクリシュナ氏の家まで行っていろいろ思い 出話をして。そらもう、下宿させてくれた昔の恩師だからねえ。なかなか大事に扱ってくれたわけよ。それで頃合をみて「いつになったら山登りができるの か?」と聞いた。
事情が全然わからないから情報を仕入れる心算で入国したんじゃないかな、西堀さん。そしたらね「いやぁ、来年開ける事になってますから…マナスルは日本を第一号にしましょう」と確約を貰ったんだって(笑)。ほんと、やってみないと分からないよね。
「ただし困った事がひとつありまして…いくら大臣だって言っても、やっぱり国が鎖国中のなかで、いくら知り合いだからと言って外国人を自分の家に招いて勝 手な事はできません。ここは先生…ひいては何か講演会でも、ひとつやって戴けませんか?」って言うんですね。もう、こっちは「何でもやらして貰うよっ!」 状態でね。心が踊ってたんじゃないですか。
それからハナシはさらに弾んで「いやぁ、先生のところに下宿してた時にね。豆腐を大変ご馳走になった。私、大好物なんです。」って言うのね。ネパールには豆腐がなかったんです。考えてみれば大豆はあるし、ニガリもできる。岩塩は一杯あったんだから。
「あの豆腐は…どうしてつくるんですか。ご存じないですか?」って聞くんだね。そしたら西堀さん「ん…?」って考えてね。知るとも知らんとも言わないで 「チョット電話を貸せ」って。それで日本の自宅に電話をかけて「駅前の豆腐屋へ行け!」って(笑)。そうして、顔見知りの豆腐屋のおじさんにネパールまで 電話をかけさせて「おいっ、豆腐の作り方教えてくれっ!」ってね。
科学者だから、だいたい聞けば解るわな。大豆いくらに対してニガリの量はいくら…ってね。それを一応メモして、次の日に作ってみせたそうや。それでネパールで初めての豆腐ができたんやって。クリシュナさん、大いに喜んでやね。「豆腐の作り方」の講習会をやったそうです。
それでね、ネパールのカトマンズーに行ったら、ちゃんと豆腐屋さんがあって豆腐を売ってるわけ。今は「トーフ」って言うみたいですけど、当初の頃は「ニシボリ」とか…新聞に出てたみたい(笑)。
そうして翌年、マナスルの登頂許可を日本が初めて獲得した。京都大学山岳部でね。京大山岳部OBの会(AACK)だったかな。この時、西堀さんは京大の連 中の発言を抑えて「これは日本山岳会に持っていこう」って言ったんです。最初の事だから京大山岳部だけでやるな、と。日本国としてやらなければいけない、 とね。
それで、日本山岳会の当時マツカタさんとかマキさんとか、有名な会長がいたんですけど…京大からこの許可は黙って日本山岳会に渡ったわけ。それで、日本山岳会としてマナスルをやった。毎日新聞が後援について…。西堀さんって、そういう意味でかなりの政治家なんだよね。