われら六稜人【第21回】「すばる」の中のもうひとつの宇宙


武蔵野の林の中に佇む60cm屈折望遠鏡ドーム。
※国立天文台は1988年に東京大学・東京天文台が
発展改組して発足した大学共同利用機関である。


3億光年
想いは世界最大級の望遠鏡へ

    1977年に東大理学部の天文学教室の助手になり、4年ほどして、当時の東京天文台(現国立天文台)に移りました。その後、82年夏から83年夏にかけ てイギリスのケンブリッジ大学の天文学研究所に留学しました。その時のテーマは、先程の学位論文の延長で、銀河の振動の研究をしました。ですからケンブ リッジにいた1年間は理論天文学者として、ペーパーワーク中心でした。休日には、その当時小さかった長男とイギリスの動物園を巡ったりしました。10カ所 くらい行ったとおもいます。その後、ぼく自身も観測の研究もしたいと思っていましたし、妻がドイツ語が専門ということもあって、ミュンヘンの欧州南天天文 台にいきました。当時、すでにアメリカのロッキー山中にいくつかの天文台がありましたので、北半球の空にみえる宇宙の観測網は比較的整備されていたのですが、南半球の空 をカバーする天文台が1970年代まで無かったのです。それでヨーロッパ諸国が国際協力でチリに大天文台を建設していて、そのミュンヘンの本部に1年間客 員研究者として招かれたというわけです。
    ちょうどその頃、新しい観測装置ができて、それを使った観測テーマの提案を、ぼくが4つほど書いたところ、4つとも採用されるということがありました。 しかも、ぼくは部外者…日本からの研究者であるにもかかわらず「提案者であるから、おまえが行ってコミッションしてこい」ということなったのです。

    欧州南天天文台4m望遠鏡での観測風景
    (チリ、1984年)

    それで、チリのアンデス高原にある4m望遠鏡に設置された最新の観測装置の立ち上げ観測をやりました。オペレータと二人で一週間ほど…毎晩、望遠鏡を覗く生活です。南半球では、星が西から登って東に沈むような錯覚を覚えました。

    結局、南米チリには3度、観測に出かけました。その後、ミュンヘンに帰ってデータ解析をしたり、その解析用自作ソフトを改良したりという仕事もしました。
    この頃…あるやり方で巨大望遠鏡が実現できそうだというアイデアが固まってきたのです。

    84年の夏に日本に帰って来てすぐに、大型望遠鏡建設をまじめに検討する会を作りましょうと言うことで、技術検討会というのを組織し、50回くらい研究者や専門技術者と一緒に構想を練りました。91年から予算もついて、大型望遠鏡建設が現実のものとなっていきました。ぼくは理論の研究者として学位をとりましたけども、机上だけの議論をやってもおもしろくない、観測でその理論が正しいか間違ってるかちゃんと立証できな ければ意味がない、とずっと思っていました。日本には理論にすぐれた人が若い人も含めて大勢います。しかし、それを実証できる望遠鏡がない。
    岡山に2mの望遠鏡がありますが、街のすぐ近くで、そんな遠い宇宙を観測できるほど暗くないし、天気も良くない。日本の天文学を本当に底上げするには世 界の一番いい場所に大きな望遠鏡を作らねばいけないと…これはぼくだけでなく、みんなそう思っていたんです。ただどうすれば良いかについての意見はさまざ まだし、誰も本気で諸々の調査をしようということはなかった。

    そこで、ぼくは、先に述べたような研究会を進める一方で高感度CCDカメラの開発や、あとで述べる能動光学方式の実証実験に取り組みました。その間に仲 間が、ハワイ大学といろいろと相談をして、ハワイ島のマウナケア山の上をお借りするという約束を取り付けたんです。それも1エーカー1ドルで。そのほか、 役所とのいろいろ綱渡りめいた交渉やら、それは大変でした。何しろ、海外に国立の研究所をつくることなどは、はじめての経験でしたから。

    グリニッジ天文台本部を訪ねて
    (英国サセックス、1988年)
    ※当時英国南部サセックスの古城にグリニッジ天文台
    本部があった。日英協力の協議に訪ねたが、幽霊がでる
    …という噂のある古城の中で泊まった部屋のベッドは、
    四隅に柱があり天蓋のある年代ものだった。

Update : Jun.23,1999

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