第6法廷
空、陸、海と…悪運の強い男
- 武山海兵団の学生隊では、出身大学による格付けがありました。東大、京大それから早稲田、慶応ときて…中央大学なんか随分最後のほうでしたよ(笑)。それでも学徒動員では1番年長でしたし、喧嘩は強いわ、根性も太いわ…で、結構いい顔してのさばっていました。
横須賀の海軍航海学校では、最後の試験で予備学生全体の4番にまで上り詰めたんです。すごいでしょ。頭はそんなに悪くはないんですよ…さっきから落第の話ばかりしてますが(笑)。海軍予備学生の同期には、映画俳優の西村晃、茶道の千宗室、関西電力の小林庄一郎らがいました。私は横須賀の海軍航海学校で訓練を受け、卒業と同時に少尉に任官。駆逐艦「梅」の航海士を命ぜられました。
当時「梅」はフィリッピンに停泊中でしたから、私は早速、当時、海軍ご自慢の2式飛行艇に乗り込み、横浜を後にしました。ところが翌日…この飛行艇に思わ ぬハプニングが待ち受けていたのです。台湾の東港で着水ミス…海面にたたきつけられ大きくバウンドして舞い上がった飛行艇は真っ二つに割けて海に突っ込ん だのです。
幸いなことに…私はその割れ目から放り出されて、海に落下しました。「ああ、落ちる落ちる…」頭を抱えながら、50mくらいの上空から海面へ一直線。落下 の途中で気を失っていました。さらに幸いなことに…立ったままの姿勢で入水したために、まったくケガひとつなく九死に一生を得たのです。
飛行艇には任官したての少尉が30余名、海軍中佐が1名、大尉が1名、後に動物作家で有名になった戸川幸夫さんと他1名の海軍報道記者も乗っていました。 この事故で、学生気分の抜けきらない若い少尉たちの半分くらいが無駄な命を落としたのです。私も、まさか少尉に任官して翌々日に…いきなり太平洋を泳ぐこ とになるとは思いもしませんでした。
次なる受難は高雄での話。空襲に遭い、慌てて逃げ込んだ民家に…何と爆弾が命中したのです。全壊した家の下敷きになった私は、偶然にもちょうど梁と梁の隙 間に身を守られて…かすり傷一つせず出てこれました。嘘のように悪運の強い人生です。そして、二度あることは三度ある…の諺どおり、最後は「梅」が撃沈さ れました。
当時、フィリッピンは孤立し、生き残った陸海空軍のパイロットがフィリッピンの北端にあるアパリという漁港に集結していました。本土では戦闘機を操縦でき る人材に窮していたので、彼等を救出すべく特命を受け、駆逐艦「梅」は2隻の僚艦を従え、早朝未明に高雄の軍港を出港し、バシー海峡を南下しました。有名 なアパリ作戦です。
出航前味方の飛行機3機が護衛をする…という連絡が入っていました。ところが、なかなかそれが現れません。しばらくして右舷はるか水平線上に飛行機らしき 黒影が3点…こちらに向かってくるのが見えました。私はてっきり護衛機が到着したもの…と思い込んでしまい、航海士でしたから…それをそのまま艦長に報告 しました。これが実は敵機だったのです。当時の日本の無線暗号はすべて米軍に解読されていたのでした。
護衛機を装った米軍機3機は、日本機を先回りして思う存分に「梅」と僚艦を攻撃しました。私はこの時の被弾で右下腿に弾片が貫通…血みどろになり動けなく なりました。「もはやこれまで」…艦内の機密書類の保管責任は航海士の役目でしたから、私はそれらを袋に詰めさせ、体に括りつけ、唯一残ったカッターとい う12人で漕ぐボートを下ろして乗り込み、「梅」を離れました。
「梅」の乗員280余名のうち、その半数近くはどうにか助かりました。 私は、この時の戦闘のおかげで戦傷病者手帳を持っています。障害名は「右下腿貫通爆弾々片創複雑骨折」と「左右大腿盲管爆弾々片創」です。左右の大腿に今でもこの時の破片が7つ…残っています。
後日談ですが…ハワイの税関でこの体内の破片が金属探知器に反応したんですね。税務官が怪訝な顔をしますから、同行していた弁護士仲間(編註:同窓会副会 長・62期の山本次郎氏のこと)が英語で説明したんです。「この方は日本の元海軍将校である。あなたの国と戦った時に、あなたの国の爆撃を受けて…いまだ 体内には爆弾の破片がたくさん残っている。すべてあなたの国のものである。」すると、その税務官…パッと姿勢を正して敬礼しましてね(笑)。