第6病棟
マスメディアと紳士協定
- 今回の心臓移植で僕は一度も「外科医」のシゴトをやれなかった。ほとんど、その現場にタッチする時間がなかったこともあるけど、僕はあえて法律の施行前に 外科チームから離れたんだ。“今回の役割”を完遂するために…この日のためにね。だから実際問題…実は移植を受けた患者さんとも、まだ一度も顔も合わして いないんだよ。
何をしていたかというと、病院内への立ち入り取材を一切禁止して、マスメディアが望む情報を僕が集約し、そこからプライバシーに関わる情報をすべてカット して、そして発信させる…そうした取り次ぎの仕事だけで45時間ほど寝る暇もなかった。テレビなんかで手術室の映像が出たと思うけど…あれはこちらが撮影 したものを中継車の中で編集して、公表しても差し支えない場面だけを渡していたんだ。マスメディアとは1年半も前から十分に話し合って、どういう絵が欲し いかということは決めていた。だからリアルタイムに情報や画像が出ていっているんだよ。今回の報道でほとんど混乱が起きなかったのはそのお陰なんだね。報道陣は都合500人くらい集まったみたいだけど、そのうち約半分が事前に「話し合い」の 済んでいる大阪大学科学記者クラブの関係者…いわばメジャーのマスメディア。残り半分が「一元さん」というワケなんだけど、彼等も…どう抜け駆けしたって いい絵が撮れるワケでもないし、面白い記事も書けない。こちらの言う通りにしていたほうが、ほぼリアルタイムに最新の情報が貰えるわけだからね。それで、 クラブの記者と同じ行動を取ってくれた。そういうシミュレーションが出来上がっているんだから…それで特に混乱は無かった。もちろん…さっき言ったように 病院の中へは一切「立入禁止」というのがお約束で、各出口には事務職員が張り付いてシャットアウトしたんだ。
手術中は別室でモニターに映る画像を見せながら、8時間つきっきりで僕がレクチャーした。患者さんが「自分の姿は映して欲しくない」というんでね。手術室 の天井隅にある監視カメラで…アレだとうまい具合に全景が映るんだけど、術野(手術の部位)そのものは陰になって見えないからね…僕には執刀医たちの動き で手術の進行が手に取るように分かるし。「あっ…今、患者の心臓を摘出したな」「今、ドナーの心臓を手にしたぞ」「今、縫合が終わったな」「あぁ、無事に 終わったぞ」ってね。それを報道陣にいちいちレクチャーしていた。
患者さんとは事前に十分に打ち合わせしていたからね。どういうアングルから、どういう絵なら出してもいいか…。「自分の肌は出さないで欲しい」というのが 患者さんの要望だったから…神経を使いましたよ。ICUから一般病棟へ搬送されるシーンで、一瞬だけ肌が映ってしまったンだけど…編集の際に出来るだけ分 からないように気を配りました。マスメディアから「食事をするシーンが欲しい」と言われて、何度か試みたんだけど…これがなかなか難しい。肌を映さずに食 事のシーンを撮れったって、茶碗と箸しか撮れないでしょう。で、このシーンは諦めて貰った。
今回の経過については嫌というほどマスメディアで報道されたから(笑)、詳しい話はしないけど…やはり問題は「ドナーが出た」という最初の報道にあった ね。本来は、移植手術が完全に終わるまでは、ドナーがどこの病院から出たのか発表しない…というお約束だったんだ。ウチなんか…心臓移植の一例目を実施す る覚悟があらかじめできていたから、阪大側がイニシアティブを持って報道規制を敷いていた。だからマスメディアとも、一定の紳士協定の下でモノゴトが進展 したんだけど、臓器提供側はどこから出るか分からないからね。有事の対処方法が不十分で(ある意味、それは仕方がなかったんだけど)…全国ネットのマスメ ディアに見事、嗅ぎ付けられてリークされてしまった。一度出てしまうとね。もう…アトはまるで芸能スキャンダルみたいに各社が飛びついちゃって。それで予想通りの混乱が起きた。患者さんの家族からプライバ シー問題のクレームが付いて…おかしくなった。永年かかって培ってきた信頼関係もブチ壊しだよ、あれじゃ…。僕はマスメディアの姿勢を疑うね。
結局、半日くらい前には入ってくる筈の情報が直前になって知らされて…2時間しか準備の時間がなかった。だから本来なら患者さんに「心臓移植を受けます」 という気持ちを確かめ、それを病院として承認した上で手術の準備をする筈だったんだけど、今回はほとんど同時進行状態で…。もちろん、患者さんの気が変 わって「NO」ということになったら移植は即中止だったろうけれど…とりあえず病院側は何度もシミュレーションが出来ていたからね。たとえ2時間といえど も、そんなに混乱はなかったし…予定通りの準備が整ったんだ。
Update : Mar.12,1999