われら六稜人【第11回】コスモポリタン必要条件

バリューセット4
3足のわらじ

    松江高校へ行っているうちに戦争が負けまして、昭和23年に上京したんです。大阪生まれの大阪育ちで…東京には親戚も知人も誰もいませんでした。そのうえ 戦争中に父親を亡くしまして、終戦。何もかも無くなって…まず、お金がないでしょ。東大の学生っていうと家庭教師の口は一杯あったのですが…大抵ひと月 500円でした。当時、育英会っていうのがあってサ、東大の学生は無試験で育英資金をくれたんですが…それは月に2,000円。だけど、5~6,000円は無いと足りな かった。それで家庭教師をしたら1人教えて500円でしょ。2,000円稼ごうと思ったら4人も教えなきゃいかん。これは馬鹿ばかしいと思ったンだ。

    たまたま『英文毎日』か何かの英語新聞で「マッカーサーシェル、GHQで通訳を求む」という広告を見つけてね…今から思うと本当に心臓が強かったと思うン だけど…それを受けに行ったンですよ。そしたら二世が出てきてサ「What is your name?」て聞くので「My name is Den Fujita.」と答えた。そしたら「OK, what time is it now?」て聞くから、時計見ながら答えると、それでもう「OK」…滅茶苦茶な試験でね。そうして入ったら「おまえ、通訳だ」ということで 【INTERPRETER】って書いてある腕章つけさせられてサ。

    ところが、兵隊が何を言っているか…ガラの悪い英語で全く判らんのですよ。だから将校に「全然わかんない、悪いけど…ここに泊まらせてくれないか?」て頼 んだンです。「夜通し、兵隊と一緒におらしてくれ。そうすれば彼等の英語に慣れるから」と。それで野戦病院のような部屋のベッドをひとつ充てがってもらっ て、そこにしばらく寝泊まりすることにした。

    そうしたらね。その間「何食ってもいい、ただし外へは持って出るな」と。何しろ…その頃、進駐軍の外では、雑炊を喰うにも行列に並ばないといけない…それでも喰うモン無くて皆、買い出しに行ったり…惨澹たる状況だったからね。
    それでGHQの中でサンドイッチを食べたら…また、これがね。今でも日本のサンドイッチていったらパンのほうが分厚いでしょ。向こうのは肉のほうが厚いん です。大きい缶には並々と牛乳が入ってまして…それらが机の上に山ほど並んでいる。しかも沢山余ったのを夜9時頃になったら全部パァーっと捨てよる。そし て新しいのが運ばれて来て…。通訳ですから「それを自由に何でも飲み食いしていい」と言うンです。

    そうして半年くらいした頃でしょうか。だんだん営内の英語が判るようになってきた。別に難しいこと言ってる訳じゃない、同じことを言ってる訳ですから…聞こえなかった英語が聞こえるようになってきたんですね。そうなると「目が開けた」って言うかね…。

    僕はアメリカ人は一種類で、そんなにいろんな人種があるなんて思わなかったンだけど…いろんなのがいるンだ。アメリカ人もユダヤ人も同じ白人だと思ってい たら、アメリカ人はユダヤ人のことを「ジュー、ジュー」っていって軽蔑しているンですよ。「あいつらとは話するな」って。逆に、ジューのほうは「あいつら 頭が足りない…志願兵で殺し屋になっている奴はパァーだ」って言うんだね。

    確かに…「お母さんに手紙書いてくれ」って頼むンで、それをタイプライター持ってきて「Dear mother…」から始めて、そいつの言う通り打って出してやるんです。で、返事が来ると今度は「おまえ読んでくれ」と。「おまえ、日本で元気にやってる か?」なぁんて、そういうコトをずいぶんやりましたからね。

    兵隊の中にユダヤ人がいてね。軍曹くらいの身分なのに、いい生活してンですよ。隊の宿舎以外に下北沢あたりに家を借りてましてね。自動車を乗り回して、別 嬪の日本人の女の子を囲っている。「おまえ、軍曹のくせに何でこんな生活できるんだ?」と聞くと「俺はユダヤ人だ」って答えるンです。「アホな兵隊に金貸 してるンだ」と。なるほど、見てると月給日に給料貰うとその軍曹が取りたてに来るンだね。おそらく高い利息で貸して金儲けしてたんですね。同じアメリカ人 でも、こんなに差があるのか…それで、ユダヤ人を選んで付き合っているとね、彼ら語学が達者じゃないですか。5カ国語くらい平気で話せる。 これは面白いな…と2年半、GHQで働いているとね「やっぱりもっと外国を見てみないとダメだ」と痛感したンです。昭和30年代の初めなんて…世界の情勢 なんて分からないのじゃないの。これでは学校卒業して勤めたってしかたない…と思って。その頃、進駐軍にPXって言うのがありましてね。兵隊の生活必需品 を輸入しているんですが、贅沢品は輸入してなかった。

    例えばね。壁付きのエアコンなんてのはPXには売ってなかったんですよ。そのことを将校に言ったら、「おまえが輸入してPXに納めろ」と。電気髭剃り器な んかもね。それで、PXの特別枠を貰いまして…その枠が何でも輸入できるンです。その枠を使ってハンドバッグなんかを輸入したりしてね。

    テレビのブラウン管は僕が初めてドイツから輸入したんですよ。ベルリンオリンピックが昭和11年、1936年にあったでしょ。あの「前畑ガンバレ!」 の…。あの年にね、ドイツじゃ既にテレビ放送してたって言うんです。昭和11年ですよ。その頃、日本ではテレビなんか全然知られていなかったですよね。そ して戦後、僕がドイツのテレフンケン社でブラウン管を作っている…ということを知って、そこから大阪の早川電気(今のシャープ)に14インチのブラウン管 を50本納めたンだ。シャープはそれで日本初のテレビ受像機を作ったんですよ。

    そんなコトでしたから、僕は1日3回服を着替えていたんですね。朝は東大へ行き、昼から銀座2丁目のフジタ&カンパニーをやってましてね。夜は進 駐軍で通訳、泊まり込みでね。ハッハッハ。それで朝、時間が無い時なんかはジープで送ってくれたんです。進駐軍の服を着て…GHQって大きく書いてあるん ですよ。ところが大学の門のところで松本善明(57期)のような共産党のやつがいっぱいいてね。「おまえ何だ?入っちゃいけない」と言うんです。それで学 生証みせて「今日は授業に出るのに時間がないのでジープで送ってもらったンだ」と。そんなことよくやってました。共産党のやつも「おまえ、大学へ来るとき くらいは学生服を着て来い」というコトでおさまってね。でも金儲けはせないかんし、忙しかったねぇ。

    当時、国家公務員の給料がひと月1,000円、育英会がひと月2,000円なのにね…(まもなく国家公務員の月給も1,800円になりましたが、それじゃ 生活はできなかった)…その時にね、通訳は1万円だったんです。今の感じでいくと、100万円くらいじゃないですか。そのうえ喰うモンはみんなタダで しょ。それで僕…酒も大好きなんだけど、GHQでボトルのキープもできたンですよ。外へ出てそれを飲んだりしてね。その頃から…なんて言うかな…別に、喰 うには困らなかったな。

    通訳で入った金をポケットに入れてね。太宰治らとよく三鷹で飲んでいたんです。後に津島代議士の嫁さんになった人も、その仲間にいましたね。大宰は、 しょっちゅう女を連れて来ていて…ある日(編註:昭和23年6月13日)その女と帰る段になってね。雨が降って玉川上水が溢れそうで危ないという。僕らは 遠回りして行くように勧めたのに、太宰は玉川上水のほうを通って帰ると言って聞かなかった。その日に死んだンですよ(編註:昭和23年6月19日に発見さ れた)。みんな入水自殺だと言ってるけどね、あの位の水かさで死ねるワケがない。あれは情死ではなく溺死だと思うよ。相当、酔っぱらっていたからね。

Update : Jul.23,1998

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