1930年にジルベートの父はホテルを売却し、経営は他人の手に渡ってしまうが、歌によって人の口から口へとスイス全土に語り継がれたジルベート人気は途絶えることが無かったどころか、更に盛り上がっていく。 1939年、国境警備開始25周年を記念し、ルドルフ・ボロ・メーグリン(Rudolf Bolo Maeglin)が「コージョネのジルベート 」という小説を発表した。小説はメーグリン自身によってすぐ、演劇用に書き直された。 同年、この劇はチューリッヒにて発表された。満員御礼の計8回の公演の後、別の劇場では125回も上演され、続いてバーゼルで80回、ザンクトガレンで50回……という超ロングランヒットとなった。 プレミア公演の度にジルベート本人が姿を現し、観客の熱烈な喝采を浴びた。熱心なファンは、時には自宅にまで押しかけてきたようだ。1939年8月26日、ジルベートが実弟ポールに送った手紙の抜粋である。 「……アパートにとても入れません。花かごや紅白のリボンで飾られたブーケで一杯。そして私も自分宛の手紙に押しつぶされています・・・手紙を長く書くことは不可能です。電話はひっきりなしに鳴ります。花、本、贈り物が殺到し続けています。8日間私は寝ておらず、何も飲まず、何も食べていません!……」 栄光の代償はいつの時代もこうである。 1941年には美人女優アン‐マリー・ブラン(Anne-Marie Blanc)主演で「コージョネのジルベート」が映画化され、これも大成功を収めた(私は残念ながらこの映画をまだ見ていないが、かなりフィクションがかっているそうである)。 時は第二次世界大戦中。あくまでも中立を貫き通すスイス軍は国境警備に当たっていた。ご存知のようにスイスは多言語国家。現在でも度々起こる現象だが、ドイツ語圏とフランス語圏では政治的に意見を異にすることが多い。しかし、国民が一致団結して国を守らなければならない時勢にメンタリティの違いうんぬんで仲間割れをしているどころではない。そこで、先の大戦中に「ドイツ語圏」の従軍兵の心のよりどころだった、「フランス語圏」の聡明な美しい女性コージョネのジルベートが、スイス統一のシンボルとなったのである。 戦後、ジルベートは伝説的ヒロインとして人々の記憶の奥にとどめられるようになったが、戦争記念行事の度にドイツ語圏では劇や映画が繰り返し上演された。それゆえ、ジルベート人気は特にドイツ語圏で世代を超えて語り継がれているのである。 ジルベートは1957年5月2日、他の多くの家族と同様、癌で亡くなった。享年61歳。彼女の亡骸はチューリッヒNordheim墓地の夫の傍らに埋葬された。当時のコージョネ村長シモン・コレー氏が葬儀に赴き、以下の言葉を捧げた。 「彼女は父なる宿に灯る太陽の光でした」
1997年、56年もの間経営していたドブラー・ジゴン一族が店を手放したため、ジュラ州立銀行が買収。この時、ジルベートの姪エリアンさん、甥エルヴィンさんを初め、政治家や実業家などジュラ州で名の知れた人々が中心となって立ち上がり、ホテルの買収・再建、そしてジルベート時代の文化伝承のために奔走した。「コージョネのジルベート財団」と名づけられたこのグループは、一時、財政難から買収をあきらめかけたが、バーゼルの実業家クレーリー&モリッツ・シュミッドリ夫妻(Klärly & Moritz Schmidli)が多額の寄付を施したため、無事にその任務を果たすことができた。2001年4月には改装工事が終わり、新装開店記念式典には連邦議会とスイス23州すべての代表が参列した。 2005年8月の時点で、ホテル・レストランは順調に経営を続けている。軍人達がジルベートと共に飲み、歌い、踊った大ホールの壁には当時の写真がずらりと飾られているので、訪れた方は是非一つ一つに見入って欲しい。彼女の微笑は今も華やかに、そして太陽のようにまぶしい輝きを放ちながら私達に話しかけてくる。 Mes remerciement particuliers s'adressent à: Madame Eliane Chytil-Montavon de Courgenay 【参考文献】 『Gilberte de Courgenay』(Damien Bregnard著) ホテル・レストラン「駅前ホテル・コージョネのジルベート」のWebsite 【写真引用】 http://www.juranet.ch/localites/communes/Ajoie/autreAjoie/Courgenay/gilberte.html Last Update: Oct.23,2005
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