村井章介(79期)氏【講演】
足利尊氏
〜激動の時代を生きた政治家〜
1)講演解説
戦前の伝統的尊氏観は、逆賊、謀反人、南朝に楯突いた人間というイメージで語られることが多かった。しかし、昨今の研究によって、尊氏の人物像をその歴史的背景のなかから浮彫りにしてみよう。
尊氏の人物像を見ていく際に、ポイントは3つある。第一は、彼の出自とも言うべき足利一族が鎌倉時代にあってどのような位置の同族であったかと言うこと。第二に、足利幕府を構成する上で、彼がどのような階層を基盤とし、また、対立したかということ。そして、第三にこれらの歴史的・社会的背景のなかで、彼自身の性格がどのように作用していったかと言うこと。これらを考えていく。
足利一族が、建武政権を追いやり、鎌倉幕府に代わって幕府を開くことができたのはなぜか?これには、当時の、旧来の貴族・寺社勢力と地方武士勢力との対立という構図をふまえる必要がある。尊氏は、地方の在地の武士層、とくに中小地頭・下層御家人、悪党、さらにはその最下層を形成する部屋住み層(武士層の二・三男)を基盤に勢力を伸ばしてきた。山城の国では、寺社勢力から領地を切り取って彼らに与え、地方では、空洞化している本所支配(中央貴族が地方の荘園を名目的に支配する)を破棄して、あらたに彼らに領地の安堵(保証)をおこなった。こうした、鎌倉時代に恵まれなかった武士層を救済すること、その実態に合わせて、つまりその意味では個別的に、在地武士勢力を再編成し自己の権力基盤としていったのが尊氏である。しかも、足利一族の惣領としてのカリスマ的権威とともに、彼自身の情義に厚く物事にとらわれない性格は、これら下層武士層に熱狂的な支持を生みだしていった。
しかし、彼らの支持だけでは、足利一族は全国的権力を確立できない。旧来の貴族・寺社勢力は依然として強く、軍事的に敗北したにせよ、南朝勢力として大きな力を持っていた。こうした部分に対抗したのが、鎌倉時代に台頭した上層武士勢力(守護・御家人上層部)である。彼らは、当初は在地の武士であった彼らも、鎌倉期を通じて地方領主として上昇し、貴族化していた。この勢力を掌握したのが、尊氏の弟直義(タダヨシ)である。直義は鎌倉体制の再建と再編をテーマに足利幕府を構成しようとする。政権を創るものとして、組織的体制的な秩序こそがその「キイ」となる。その場合の組織的とは、この時代あくまで血縁的身分秩序のことであり、武士団の原理としては惣領制である。その限りでは、貴族・寺社勢力の構成原理とも一致し、かの勢力との妥協の可能性も十分に生じるのである。現に後の南北朝合体はその経過の所産であったともいえる。
これにたいし、尊氏のように、個別的・人間関係的に事柄を解決する仕方は、反体制的勢力の構成原理としてしか有効性をもちえない。時代は、中世であり、社会の構成原理は、依然として同族的血縁集団を基礎にしているのである。個人を基礎とした近代社会はまだ遠い未来のことである。中世社会に不断に生じていく悲劇とは、この同族的血縁的社会構成原理と個人の相克に生じる。
同母兄弟が殺し合う悲劇となった「観応の擾乱(1350)」に帰結する尊氏と直義の対立とは、このような背景を持っていた。
尊氏は、頼朝系の清和源氏なきあと、唯一の源氏嫡流の惣領として、武士層の名望を集めた。さらにその鷹揚さと既成の身分秩序にこだわらない性格は、下層武士層の強い憧れの的ともなった。尊氏とこれら下層武士層との強い個人的絆は、尊氏の不遇の時に強い力を発揮した。建武政権に一時敗北し九州に逃れた尊氏が不死鳥のごとく甦ることができたのも、この下層武士層の厚い支持によるものであった。
しかし、この尊氏と下層武士層の個人的絆は、ただちに近代的個人の関係として類型できない。それはあくまで伝統的身分秩序による権威=源氏の棟梁尊氏にたいする下層武士団の托身的関係として存在したのである。
むしろ、組織的・系統的に血縁的同族集団単位に幕府支配体制を構成しようとしたのは、直義勢力である。「観応の擾乱」で直義自身は敗れるが、基本的には彼のめざしたものは尊氏の政権とは異質の室町幕府として結実していく。しかし、この室町幕府が、結局は武士団のあり方の変化に対しての妥協の産物であったことは、その後の室町幕府の結末が示している。
2)村井氏の研究について村井章介氏は、その著「中世倭人伝」(岩波新書)などで知られるごとく、中世の日本史研究に、国際的視野を取り入れた新しい研究を切り開いて来た人である。
鎌倉期から室町期にかけて、シナ海周辺の諸地域、つまり日本、沖縄、台湾、中国、朝鮮に、東アジア交流圏とも言うべき地域圏が成立していた。倭冦は、これらの諸地域間の緊張を高めるとともに、他方で、単なる海上交易の枠組みをこえた文化圏を形成しつつあった。
--- この海上交通を基礎とした地域圏の形成は、この環シナ海地域だけではない、ユーラシアを挟んで対極的位置にある北ヨーロッパでの、北海をめぐる大ブリテン諸島とジュトランド半島、スカンジナビア半島周辺の地域圏にいたるまで、東南アジア、インド洋・紅海、地中海・黒海などの諸地域を含めて多数存在してきた。 ---
このように、村井氏の研究は、とかく一国史的な視点でのみとらえがちな日本中世史の研究に、いわば国際的な視野を取り入れ、日本史研究に新しい局面をもたらしつつある、 こうした視点からの、村井氏の研究は、優れて現代的な意味を持っている。第一に、現在の我々の日本文化形成観、さらには、日本人観に大きな再認識を迫る内容であるということ、また、同時に、我々の近代的アジア観とくに(上記東アジア地域)の基本的枠組みの再構成を迫るものでもあるということである。
従来の我々は、日本・中国・朝鮮などの諸地域が、相互に影響しつつも(とくに中国の影響を受けつつも)それぞれ独自に歴史的社会を構成してきた、というふうに認識の枠組みを構成させられてきた。
これに対して、村井氏は、たとえばシナ海を(つまり、同様のことは日本海、オホーツク海でも可能性があるのだが)媒介に、それらの諸地域はひとつの文化圏を形成しつつあったのであり、近世-近代国家とは異なる枠組みの社会集団を構成しつつあったのである。それ故、たとえば、中世にその基盤を形成したという日本文化なるものは、この東アジア文化圏の構造のなかで考えられるべきであるということとなる。村井氏のこの所説を卑近な例で示せば、茶の湯文化などは、まさにこの室町期の環シナ海文化圏からの産物であるといえよう。
こうした、いわばダイナミックな日本中世史観は、昨今歴史研究の枠組みをこえて大きな影響を持ちつつある。たとえば、しばらくまえのNHKの大河ドラマ「琉球の風」は、まさにこの村井氏の研究視点をモチーフとしたものである。(小説そのものは、陳舜臣によるものであるし、陳舜臣自身も独自に環シナ海文化圏的な構想の小説を他にも発表しているが。)
また、現在、広東・香港・上海など中国沿岸部と台湾、日本、韓国などを結ぶ新しい経済圏の形成が取りざたされているが、歴史的段階こそ違え、村井氏の研究はこうした現在の発展に、歴史社会的な背景を提供するものでもある。
Update : June 10,1998