日時: |
2008年8月20日(水)11時30分〜14時 |
場所: |
銀座ライオン7丁目店6階 |
参加者: |
約50名 |
講師: |
ジャーナリスト 嶌 信彦さん |
演題: |
「シルクロードの日本人伝説〜ナボイ劇場を造った抑留者たち」 |
講師紹介: |
当日配布資料(プロフィール)
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講演内容: (要点のみ) |
◎父について
- 嶌信正@43期(故人)
- 北野中学には、3年のときに滋賀県の八日市中学から退学処分を受けたため、受験して入学を許可された。当時姉の嫁ぎ先であった北家から通学している。
- 京大時代に瀧川事件で京都大学新聞に所属し「リベラリストの瀧川さんを守る」運動を展開したり、学生仲間と雑誌『学生評論』を創刊
- 京大を卒業後、大阪の毎日新聞社に勤務。ほどなく召集がかかり戦地へ。一等兵で戦火の最前線へ送られ、銃弾を受け負傷。
- 戦後、毎日新聞アジア特派員として中国やアジア諸国を転々とする
(僕は南京で生まれ、北京・上海で育ったが当時の記憶はほとんどない)
- 帰国後、東京で毎日新聞政治部に所属。労働運動や共産党担当の記者となる
- GHQに睨まれ、レッドパージで公職追放。毎日新聞をクビになる
(僕が小学校時代の父は、いわば「浪人」のような人生を送っていたものと思う)
- 北野中学をはじめ、その後の人生においても友人には恵まれ、職を転々としたが食うに困らない生活を送ることが出来たようだ。
◎はじめに
- 1991年にウズベキスタンが独立。日本を建国のモデルにした…という話を聞いて、1995年にTBS報道特集でウズベキスタンを取材
- 1998年にNPO法人日本ウズベキスタン協会を創設
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◎ウズベキスタンについて
- 面積は日本の1.2倍。人口2200万人(取材当時。現在は2600万人)。
- シルクロードの中央に位置、15世紀までは《陸の時代》として世界の交易の中心だった
- 「サマルカンドを征する者がシルクロードを征する」
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出典:wikipedia
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→紀元前のアレクサンダー大王にはじまり、ペルシャ、その他周辺諸国にとって、このオアシスを押さえることが、行商の実権を握ることを意味した
- 構成民族は100を超える(多くはトルコ系、イラン系、そして西洋系)
→多くの民族が交わっており、女性には美人が多い
- 主な言語はウズベク語(トルコ語の系統)、ロシア語。ペルシャ語、トルコ語などを話す人もいる
→協会で世話をする留学生レベルだと6〜7カ国語を話す人はたくさんいる
- 5スタン(中央アジア5ヶ国)の中でもっとも知的水準が高く、政治・文化の中心を担う国
※「〜スタン」とは「State=国家」の意。
ex)ウズベキスタン←ウズベク共和国、カザフスタン←カザフ共和国、タジキスタン←タジク共和国、トルクメニスタン←トルクメン共和国、キルギスタン(キルギス)←キルギス共和国
- 16世紀の《大航海時代》を迎えると、世界の中心がヨーロッパへとシフト。中央アジア地域は傍流となり、世界の舞台から忘れ去られてしまう
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◎「ナボイ劇場」建設について
- 1945年、終戦時に旧満州からシベリアに抑留された日本人が60万人。うち中央アジアに送られたのが3〜4万人といわれ、その中でタシケント(ウズベキスタン)に強制連行された日本兵捕虜457人がオペラハウス「ナボイ劇場」の建設に従事した。
- 彼らは航空技術兵の部隊で、満員のトロッコに押し込まれ、1日50km程度の移動を1〜2ヶ月かけてタシケント入りした
- 収容所(ラーゲリ)で科された任務は、2年後(1947年)の「ロシア革命30周年」までにナボイ劇場を完成させること、だった
- 隊長は永田行夫少尉(当時24歳)、「2年後、全員を無事・健康な状態で帰国させる」ことを自分の任務と思った
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▲生存者の手記などをまとめ、2004年に 日本ウズベキスタンが編纂・出版した資料
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- 6:00起床、7:00朝食、8:00午前の作業、12:00昼食、13:00午後の作業、18:00夕食、21:00消灯
- 風呂は週1(2〜3分間のシャワーのみ)。服装は軍服で下着のみ支給された
- 食事は1日1800〜2000カロリー。主食は粟・麦(たまに米)。肉はほとんど骨ばかりのようなもの
- 社会主義では「働きに応じて食事が支給される」が、作業の職種が20以上の多岐にわたり、とても共通のモノサシで公平に測ることが困難であったので、永田さんの努力と交渉で「全員平等に分配」できるようになった
- 期間中の死亡者は2人のみ(1人は鳶職で作業中に落下死、もう1人は外部での作業の帰りに汽車に轢かれて事故死)
- 夕食後〜消灯までの時間→アクチブ(思想教育)があったが、強制ではなかった
(帰国後、ほかの苛酷な収容所の様子を聞いて、初めて自分たちが「極楽ラーゲリ」に居たのだと実感)
- 娯楽→麻雀牌を20組くらい自作、ほかにトランプ、花札、碁・将棋など…すべて自作した
果てはマンドリンやギターなどの楽器まで自作。座付き作家や芝居芸人もいて演劇の自主公演も
はじめは煙たがっていたソ連側も次第に認めるようになった
- 作業の現場では、ウズベク人とソ連人が指揮に当たり、日本人とウズベク人が実労働に従事
- 技術兵の集団→図面は読めるし、手先は器用→最終的にソ連人はすべて日本人に任せる姿勢
- 「捕虜なのに、どうしてこんなに勤勉なのか?」いぶかっていたウズベク人も次第に日本人を理解
- 日本人との間に生まれた子ども(?!)→2001年の文化交流の際に思い出話が出た
(ソ連に帰化しない限り結婚は認められていなかった)
- 1947年10月、劇場完成。(一部の人を除き)全員の帰国が認められた
- 書類は持ち出せないので、永田さんは455人全員の名前と住所を暗記。舞鶴に引き揚げてスグにそれを書き出した
- この名簿のおかげで、いまでも「第4ラーゲリ会」の結束が残っている
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◎ナボイ劇場について
- 広さ1.5万平米。3階建て1400席
- ロシア3大オペラハウスの1つ
・ボリショイ劇場(モスクワ)
・マリインスキー劇場(サンクトペテルブルグ)
- ビザンチン様式(ソ連第一級の建築家シュシェフの設計)
- 1960年代に2度の大地震を体験。被害はタシケント中を襲ったが、ナボイ劇場だけはビクともしなかった。
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(このことが、ウズベクの人々の「日本人伝説」をより強固なものにさせた)
◎ウズベキスタンの親日の思い
- 1991年のソ連崩壊によって独立したウズベキスタンは、これらの伝説から建国のモデルを日本に求めた
- ナボイ劇場の裏に「この建物は日本人捕虜が造ったものである」ということを記す碑(ロシア語、ウズベク語)
→ウズベキスタン独立後、「捕虜」という言葉は似つかわしくないとの理由から「日本人」と書き直された(ウズベク語、日本語、英語)
- ウズベキスタンからは相当数の留学生が、毎年、日本にやって来ている
◎日本ウズベキスタン協会の活動
- 2001年8月、オペラ『夕鶴』公演をナボイ劇場で上演
- 国際交流基金が資金面でのバックアップ(中央アジアで初めての試み)
条件は2国で開催すること(ウズベキスタン、カザフスタン)
- 子役は現地のウズベキスタン人に日本語を学んで貰って参加
- 舞台装置も現地で製作(調達)
- 字幕はウズベク人留学生が台本を全部翻訳して装置ごと制作
- 2日間とも、超満員の大盛況。スタンディング・オベーション
- 公演最後のサプライズ→ツアーに同行した抑留体験者が客席から舞台上へ
- 500人前後の会員。年会費5000円。年間予算300万円程度
- 留学生とトークの会、ウズベク語講座〜すでに80数回の実績
- 年に1回シンポジウム、文化展など。その他各種委員会が毎月1回のイベント(平均して10日に1回位は様々の会合あリ)。
- 2008年4月、創立10周年を記念してファッションショーを開催し、約1万人が観覧
- 文化女子大学と共同
- ご興味の方はぜひ、ご参加いただきたい
http://homepage2.nifty.com/silkroad-uzbek/
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