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日時: | 2007年10月17日(水)11時30分〜14時 |
場所: | 銀座ライオン7丁目店6階 |
出席者: | 51名(内65会会員:江原、大隅、梶本、正林、峯) |
講師: | (株)藤原書店代表取締役 藤原 良雄氏(79期) |
演題: | 「私の歩んだ道〜出版家業35年」 |
講師紹介: |
大阪市立大学経済学部卒。'73年「新評論」に入り、'80年、編集部長。89年に独立して藤原書店を設立、社長に。'92年、優れた編集者に与えられる「青い麦編集者賞」の第一回を受賞。また、'97年にはフランス政府から芸術文化勲章を授与された。 ('95年8月26日付朝日新聞インタビュー記事および'00年11月6〜10日の日経新聞「人間発見」記事より抜粋) |
講演内容: (要点のみ) |
1. 自分は北野高校へは'64年オリンピックの年に入学したが、あまり勉強もしなかったので何度も落第しそうになった。ようやく卒業させて貰ったような次第。大学は、自己教育の場と考えていたのでひたすら本を読んだ。ある本を読了すると次の本へと、本が水先案内人になって関心の範囲もおのずと広がった。 2. '73年に出版業界に入り来春で満35年になる。この間同窓会は始めての参加で、今日は諸先輩に興味ある話が出来るかどうか心もとないが自分の歩んで来た道をお話してみたい。 3. 出版業界に入る時、自分は大手は嫌いなので規模の小さい会社が良いと思っていたが、丁度ゼミの佐藤教授の紹介があったので「新評論」に入社した。社長の美作太郎は1903年生まれ、東大法学部出身で河合栄次郎門下、戦時中総合雑誌『中央公論』『改造』が廃刊に追い込まれた言論弾圧事件に連座した気骨の出版人であった。社長は優れた出版の先達であり、自分とは半世紀近い年齢差があったが彼の後姿をみながら勉強した。 4. 社長が'89年8月に亡くなり、美作の家もいろいろ問題が出てきた。この際は自分でやるしかないと思い、'90年春に新会社を作り創業を開始した。当時、岩波書店には良い番頭がおり、平凡社、中央公論も下中某という大物がいた。自分は'80年代に自らの編集方針を決めていたのでその方向で進むことにした。 5. 美作社長からは、編集者魂と共に職人としての感性を磨くことを学んだが、社長は常々、「出版業は企業ではなく家業である」と言っていた。岩波も講談社も人数が膨れ過ぎてビジネスになってしまい、儲け主義に走ってしまった。この結果どうなったか。講談社はコミックも売れなくなりこの10年間で30%の売り上げ減。更に、かつて素晴らしい活動をしていた中央公論も苦境にあり、'70年代に大きなビルに広いスペースで活動していた平凡社も今は小さいスペースで細々とやっている。岩波書店も銀行管理に追い込まれている状態。かつて出版は不況に強い業界と言われそれが強みであったが、'96年をピークに右肩下がりとなり、わずか35年の間に瀕死の状態になってしまった。 6. 当社は創立後現在18年目になる。出版した本は約700点。年間60点、月5点位を出版している。当社の本は高いとの印象を持たれると思うが本は安いものではない。本は、「知」と「精神」の糧であり、「志」である。 「こんな難しい本売れるのか」とよく言われる。勿論売れると思って出版しているのだが、良い本でも売れないことはある。 本は蔵本される。最近は紙質の向上により本は50年位持つようになった。しかし中身は1年も持たない。自分は50年、出来れば200〜300年位持つ本を作りたい。 7. 会社創立後、取次店として鈴木書店を考えた。東販や日販等大手は嫌いであったので何とかして鈴木書店と取引をしたいと思ったが、「新規はやらない」との社の方針が鈴木書店にはあった。それでも粘り強く交渉を続けたところ、「1回だけチャンスを与える。課長以上を集めるからその場で説明するように」と言われ、朝8時から9時までの1時間懸命に喋った。その説明の後、社長に呼び出され取引開始のOKがようやく出た。この時は本当に嬉しかった。鈴木書店をメインにして残りを東販と日販に分けた。ところがこの鈴木書店がやがて倒産することになる。「鈴木が危ない」という噂が出て3ヶ月位で倒産してしまう。この時は毎日が秒読みであり、売掛金を少なくすることに全力を傾注した。 8. 話は戻るが、就職で東京に出て来た時、知り合いは誰もいなかった。出版社も小さいところであったが、若いなりに戦略を考えた。先ず、自分が学生時代に読んだ超一流の人を訪ねようと思い、丸山真男、清水幾太郎、野間宏などに何回も手紙を書き、会ってくれるように頼んだ。勿論簡単に返事は貰えなかったが、根気よく続けている内に同情されたのか、遊びに来いという返事が来てようやく会えることになった。原稿の依頼などはせず、先ず会って話をすることから始めた。これらの人との出会いがなければ現在の自分はないと思う。 9. '80年に「新評論」の編集長になり、'81年2月にその後の歴史の大転換を予見したH・カレ―ル・ダンコース著『崩壊したソ連帝国』の邦訳を出版、歴史的分析を重視するレギュラシオン学派などを発掘し日本に紹介した。ダンコース女史はフランスのアカデミー会員で、民族、言語、宗教の三つの視覚からソ連邦データを緻密に分析した結果、何故イスラム教徒の力があれほど増大したのかという疑問に直面し「ソ連邦は抑えが利かなくなって分裂する」という衝撃的な結論に達した。ソ連崩壊は’91年だったのでその10年も前にそれを予見したことになる。当時ソ連の本など売れないと言われていたが、この本は全ての大新聞で採り上げられ、発売後爆発的に売れた(なお彼女は、特に秘密の資料などは使っていないと述べていた)。 10. 自分は団塊の世代の一員としてマルクスをかじった。マルクス主義に代わる世界観は何かを常に考えていた。現代文明の根源を問い続けた思想家イヴァン・イリイチとの出会いで、自分は決定的に変えられた。イリイチの著書「生きる思想」、「生きる意味」は藤原書店のガイドブックに紹介されている。 11. 学生時代に、恩師から野間宏の『青年の環』を読めと言われた。「20年がかりで完成した大作で藤村の『破戒』をしのぐ作品だから」とのことであった。それでむさぼるように読んだが野間宏という人間のスケールの大きさに驚いた。自分は現在「野間宏の会」と河上肇の「東京河上会」の事務局長を務めている。 12. '95年8月26日付朝日新聞の編集長インタビューで当社は次のように紹介されている。
ブローデルは第二次世界大戦のさなか、ドイツの捕虜収容所で記憶をたぐり寄せながら、1年足らずでこの大著を書き上げた。とてつもない記憶力である。「そんな凄い学者が極限状況の中で書いた大著なら、是非翻訳本を出したい」と訳者を探したが「空恐ろしい」とその都度逃げられた。ようやく訳者の浜名優美、南山大学教授にに巡り合えたのは幸運だった。その浜名先生も『地中海』の後書きに「この翻訳企画は狂気の沙汰だった」と書いている。 しかしこの本が藤原書店の出世作となり一冊の定価8800円の高額にも拘わらず1万5千部も売れた。これが売れなければ当社は倒産したであろう。この成功により、1万人位は心ある読書人がいるだろうと確信するに至った。良質の読書人が読みたがる本を精いっぱい高い定価をつけて2千、3千部確実に売る。「小部数、高価格」が藤原書店のやり方である。 13. 今年は後藤新平(1857〜1929)の生誕150周年の年に当る。その記念すべき年に当社は『<決定版>正伝 後藤新平』(全8分冊)及び『別巻 後藤新平大全』を刊行した。この記念行事として11月2日(金)有楽町朝日ホール(マリオン)において後藤新平フェスティバルが行なわれる。明治から昭和に至る激動期に、経済・社会の近代化に向け、鉄道・道路・上下水道・電力・郵便・放送・教育などのインフラ整備に辣腕をふるい、近代日本の礎を築いた後藤新平のスケールの大きな「仕事」の現代的意味を知ることは大いに意義あることであると思う。彼が、「これからは自動車の時代が来る。そのための道路が必要である」と考えて東京に「昭和通り」を作ったことはよく知られている。100年先を見越した構想を打ち出した後藤の先見性に見習うべきことは多いのではないか。 14. 企業経営においては、短い算盤と長い算盤のバランスをとる必要がある。新刊の単行本を一年かそこらで文庫本にして売り出すことなどは出版界の自殺行為であると思う。人々は質のためには金を出す時代になってきているが「質」を作るには時間がかかる。当社は、「限られた人生の中でいずれ読んでくれる人がいるだろう」との思いで今後も良質の本を出して行きたいと考えている。 |