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日時: | 2007年8月15日(水)11時30分〜14時 |
場所: | 銀座ライオン7丁目店6階 |
出席者: | 51名(内65会会員:大隅、山根、峯) |
講師: | 都立北多摩看護学校非常勤講師 吉川 清美氏(80期) |
演題: | 「硫黄島の兵隊」 |
講師紹介: |
1972年神戸大学教育学部卒業。奈良女子大学大学院修士課程中退。東京学芸大学大学院修士課程終了。高校講師等を経て現在に至る。 |
講演内容: (要点のみ) |
講演はパソコン使用によりスクリーンに多くの映像を写しながら行なわれた。又、資料として2006年10月7日付朝日新聞(静岡版)の記事写し及び講師の父、越村敏雄氏の著書『硫黄島守備隊』の一部写しが配布された。この二つの資料の一部を下記に転記する。 1. 朝日新聞記事: この記事は、「父の戦記 娘が加筆」、「独学で研究 現地取材」「吉川さん自費出版」等の見出しと共に次の書き出しで始まっている。 「太平洋戦争の最激戦地と言われる硫黄島に配属され、晩年を藤枝市で過ごした故越村敏雄さんの著書を、長女の吉川清美さんが加筆修正した『硫黄島の兵隊』(朝日出版サービス)(*後に朝日新聞社発売)が8月下旬に自費出版された。米軍との戦いを前にした兵士の生活をつづった父の著書に戦闘開始後の模様を独自に調べ、加えた。」 記事の内容は、旧建設省職員であった越村さんが1944年7月、34歳の時に硫黄島に出征し同年末帰還したこと、島では翌45年2月に米軍との攻防戦が始まり日本軍は1ヵ月後に玉砕したこと、日本軍約2万人、米軍約6800人が戦死したことを述べ、都内に住む吉川さんが硫黄島の戦いについて少しづつ独学で研究し1996年には島に足を運んだほか関係者への取材を重ねてきたこと等が述べられている。 又、この記事の中で吉川さんは「題材が戦争だけに間違ったことは書けないと思いました」「戦いを知らない若い世代にも広く知ってもらいたいと思って編集した」と話している。当初は市販しないつもりで全国の主な図書館300ヶ所と約50校の中学、高校や関係者に寄贈したが、予想以上に好評だったため増刷し年末(06年末)ごろには一般書店で販売される予定と述べられている。 2.越村氏の著書『硫黄島守備隊』の一部抜粋: 以下は、越村氏が昭和53年に、著書「硫黄島守備隊」(現代史出版会発刊徳間書店発売)の冒頭に書いたもの。 硫黄島……それは第二次世界大戦で、日米両国の間に、世界戦史上かつてなかったといわれる凄惨な死闘が繰り広げられた、太平洋上の孤島として知られている。島を守っていた二万余の日本陸軍は全滅し、攻略した米海兵隊側も、また、死傷者二万八千余名という記録的な犠牲を払わされた。太平洋戦争の全戦域を通じて、これほどの出血を短期間に米軍側に強要した戦線はなかったとして、戦史に特筆されている。 だが、それだけでは、あの島で死んでいった二万の将兵は惨めすぎるであろう。彼らは島に揚陸されたその日から、硫黄と塩の責苦から逃れることが出来なかった。それはこの島で死ぬまでつきまとった。燃えるような渇きが襲いかかり激しい下痢と高熱に冒された。そして、やがてこの島に特有の栄養失調症にとりつかれ、果ては、立ち木が枯れるように無数の兵が米軍の上陸を前にして死んだ。そして痩せさらばえて生き残った人間の集団が、凄まじい火力と鋼鉄に激突して全滅した。 「どうせ死ぬなら、ひと思いに死んだ方が楽だ。こんな姿になり果てて、まだ生地獄の苦しみを嘗めねばならんとは、いったい、これは何の因果だ」 幾度か同僚兵の口から洩れた言葉である。 そうしたことは、私も例外ではなかった。そして運命の怒涛にひと飲みにされようとしていた時、奇跡が起こった。二万人のうちの二十人余りの兵隊の身の上に……。私はそのうちの一人として、一転して、悪夢の日を目前に送還された。 それから二ヶ月……ついに、彼らに最後の日が訪れたのである。その日を迎えるまでに彼らの辿った苦難な道は、あまりにも惨めすぎる。彼らはその悲惨のあげく、世紀の死闘を繰り返して全滅した。 私は彼らのことを考えると、三十数年経った今でも、たまらない衝動に駆られてくる。そして、当時の呪わしい記憶の中に引きずり込まれてしまう。 戦場体験のある人々も次第に少なくなり、国民の過半数が戦争を知らない世代になってきている現在、それらの人々に、硫黄島の実態が一切埋没したままでただ、“第二次大戦の末期に全滅した、太平洋の孤島"として葬られてしまうことが、私には堪えられないのである。それでは彼らの苦難を、あまりにも通り一遍のものにしてしまう、と私はこんなことを考えて、いつも満たされない気持ちに責められていた。 私は参謀でも将校でもない。硫黄島にいた兵隊である。従って、部隊や装備の統計的なことや、日本軍の動きの大局などは知る由もない。そのような事は既に戦史に詳述されている。私は硫黄島に散った兵隊が辿らねばならなかった、悲惨な道程を書いた。また、そうした中で、機械的に迫ってくる死に直面した人間の、赤裸々な気持ちの動きを書いた。 (ただ、私たちの運命が、どのような状況のもとで決定づけられていったかをわかっていただくために、必要なかぎり、当時の戦局や戦況の推移、部隊配備などを調べて叙述することにした。その作業は、当時の自分が置かれた位置を確認し、自分を納得させるための作業でもあった) 3. 講演の要点: (1) 硫黄島は軍事的要衝であった。米軍は爆撃機B29を主体に、サイパンから本土空襲を行なったが、護衛の戦闘機は長時間の飛行が出来ず、伴うことができなかった。B29の不時着用と護衛の戦闘機のための前進基地が、是非とも必要だった。 (2) 父は昭和19年7月10日横浜を出港したが、その時乗船していた誰もが行き先を知らなかった。それは船上で知らされたのである。 (3) 5日後に硫黄島に到着した時、非常に沢山の飛行機の残骸を見た。船上の誰もがそれは米軍の飛行機の残骸だと思った。大本営発表は日本軍の輝かしい戦果のみを伝えており、それを聞きなれた兵士達は、それが実は日本軍の飛行機であったとは到底信じられなかった。 (4) 上陸後第一日目から米軍の機銃掃射が始まった。米軍は上陸前8ヶ月間、連日硫黄島を空爆した。兵隊たちは空爆を避けるため、全島を地下要塞化する作業を行なったが、どこを掘っても熱い地熱や亜硫酸ガスが噴き出し、喉の渇きをいやす水は、塩からい硫黄泉のみ。 (5) 兵士を最も苦しめたのは真水がないことであった。水の補給を担当する部隊もあったが全く役立たずであった。米軍は蒸留装置を持っておりこれを活用した。硫黄島に島民が1000人しか住めなかったのは水事情が要因だった。 (6) 硫黄と塩分が体内に入り続けると、下痢が始まりパラチフスも続発した。やせた体はどんどん衰弱する。喉の渇きをいやすのは塩辛い硫黄泉であったが液体でさえあれば何でもよかった。「渇き地獄」は正常な人間を狂わせんばかりの過酷さであった。兵隊の食べるものといえば乾燥野菜入り味噌汁と少量の米飯のみ。飢えにも苦しめられ続けた。 (7) 物資補給のための輸送船が来ても、次々と海底に沈められた。米軍の落とす照明弾の光で輸送船がくっきりと浮かび上がり、それに爆撃が集中する。島にいる兵隊達はその様子を砂浜からじっと見ているのみであった。 (8) このような状況のなかで、兵隊達は絶えず精神的な支えを探していた。日本軍は、米軍の陸・海・空三方からの攻撃を受けながら闘わざるを得ず、近接戦になったら、敵を道連れにして爆死してやろう、と実戦を思い描いて心構えにした。栗林中将も「敢闘の誓」6か条を作り兵士に徹底させたが、例えば「各自10人を倒さざれば死んでも死せず」という、平和な今読むと想像を絶する内容。 (9) 父は栄養失調になったが、薬も何もなく、水のような重湯を飲まされるのみであった。野戦病院では、衰弱し動けなくなった者から死んでいった。それでも父は一旦回復し中隊に復帰した。しかし、再び身体に異変が生じ、むくみが身体中に広がり、栄養失調の末期症状で再入院した。数日後に突然送還命令が出た。送還命令とその中止命令を数日間繰り返した後、ようやく本土へ帰還出来た。母は再会しても、やせ衰えた父は別人のようで、誰だか判らなかったとのことである。父の大隊は、288名中生還者は一人であった。「戦争を知らずに一生を終えられたら、これほど幸せなことはない」と父は常々言っていた。 (10)私は1996年に慰霊団の一員として硫黄島を訪問、二日間に亘り戦跡を自衛隊のトラックで見学させてもらった。「米軍の碑」もあったが、遺族の中でその前で写真を写した人はいなかった。慰霊団に参加した人は、誰もが本土からの水を持参し、故人が本土を思い出させるようなものも持参していた。訪問を終わり、船が島を離れる時には「お父さーん、一緒に帰ろーう!」と口々に叫ぶ声が響き、真に痛ましかった。 (11)父は12年もかけて本を書き出版した。それは正に父の執念であった。父は、それを出版するために生かされていたのではないかと思うことさえある。島には未だ1万2千柱近くの遺骨が残っている。遺骨収集は現在も細々と行なわれているが、一日も早く完了することを願っている。 なお、本日手違いにより米軍上陸時の実録ビデオを含む映画を上映できなかったことを残念に思う。 |