講演内容: (要点のみ) |
(1)以前は文化の中心は京・大阪であった。数学においても然りであり、配布した資料「京阪の算家とその流派」にその系列が記されているが、その中のキーパースンNO.1は吉田光由(1598~1672)であり、No.2は澤口一之である。澤口が作った問題は飛び切り難しく、この頃から江戸の数学は発展した。
(2)以前、曽野綾子氏が「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たない。このようなものは追放すべきだ」などと言ったことがある。しかし、世界で二次方程式を教えないような文化は無い。日本では数学の知識がどんどん失われているという憂慮すべき事態になっているので、むしろ数学教育は強化されねばならない。
(3)説明資料の中に平方根が記されているが、懐かしく思われる方も多いのではないか。平方根については江戸時代の人は既にこれが出来た。又、立方根は中国人は出来たが、ギリシャ人は出来なかった。世界の歴史を見ても当初は東洋の方が上だったが19世紀中頃からヨーロッパの方が優れるようになってしまった。
(4)(報告者注:講演はかなり難解な部分が多かったので、以下は講師が作成した資料の一部をそのまま転記した)
- 中国の数学:
古代の帝国はいずれも広大な領土から公平に税金を徴収し、灌漑設備を整え、農地を造成するために高度な数学をもっていた筈であるが、今日までその全貌が伝えられるのは中国だけである。紀元前後に編集されたと思われる「九章算術」(注1)はその名の通り方田、粟米、衰分、少広、商功、均輸、盈不足、方程、勾股の九つの章からなる。
【注1】「九章算術」川原秀城 訳解説、科学の名著2 中国天文学・数学集、朝日出版社。
「盈不足」では二元一次方程式、「方程」では一般の連立一次方程式を今と同じ消去法で解いていた。その過程では当然負の数、零、分数などが現れる。計算には算木を使った。赤が正の数、黒が負の数を表した。「勾股」は直角三角形の直角を挟む二辺を意味し、ピタゴラスの定理とその応用として二次方程式の解法を含む。ピタゴラスの定理そのものの証明はこの本より古いと考えられていた「周髀算経」(注2)にある。
【注2】「周髀算経」橋本敬造 訳解説、科学の名著2 中国天文学・数学集、朝日出版社。
「九章算術」の本文は設問と解法だけで出来ているが、262年に三国魏の劉徽によって加えられた註により殆ど全ての命題に対してその証明が与えられている。但し、ユークリッドの「原論」のような体系的なものではない。
五世紀、劉宋の祖沖之は円周率を小数点以下7桁計算し、近似分数355/113を与えた。これはその後1000年に亘って保たれた世界記録である。この詳細を記したと思われる著書「綴術」は、中国唐、朝鮮新羅、我が国平安期で「九章算術」と共に官吏養成のための教科書として使われた記録があるが、三国共にすぐに廃れてしまって、今に伝わらない。
中国数学の次の発展は宋・元代に見られ、高次の代数方程式の解法である「開方術」と方程式を立てる新しい方法である「天元術」が確立し、たくさんの数学書が出版された。実用から離れ、数学のための数学が生まれ、また、民間の数学者たちが活躍したのもそれまでになかったことである。その中の一人朱世傑が1299年に著した「算学啓蒙」は15~6世紀の李氏朝鮮で銅活字を使って復刻された。そして、おそらくは秀吉の朝鮮出兵の際に我が国に持ち込まれた。その一冊は現在筑波大学付属中央図書館に収蔵されている。ここには同じ由来と思われる宋代の数学者楊輝が著した「楊輝算法」の朝鮮版も納められている。この本は関孝和が1661年に筆写したことで有名であるが、「算学啓蒙」と違って日本で復刻されるようなことはなかった。
中国明代には算木を用いる「天元術」が失伝する。書物は残っていてもそれを理解できる人がいなくなってしまったのである。しかし、新しい計算道具である珠算が起こり、1592年程大位が著した「算法統宗」が新しい数学の教科書となる。この本は「九章算術」を手本としており、我が国でも標準的な教科書として受け入れられた。高次の代数方程式はないが、二次方程式は立てることも解くこともできた。
- 吉田光由の「塵劫記」
我が国固有の数学は江戸時代になって漸く興る。摂津瓦林から京に移り住んで割り算の塾を開いていた毛利重能が1622年割算書を出版したのがほぼ最初の記録である。この門下にいたことがある吉田光由は1627年「塵劫記」(注3,4)を出版して非常な成功を収めた。
【注3】吉田光由、大矢真一校注、塵劫記、岩波文庫、1977
【注4】現代活字版「塵劫記」和算研究所、2000
これから数学は一挙に全国に普及する。光由は京都嵯峨に本拠があった角倉吉田家の一員で、木活字および木版による印刷、出版はここで始まっていたのである。「塵劫記」をその海賊版と区別するために色刷りの版を出したりしたのが、やがて浮世絵版画につながる。もう一つの対策は、答えがない問題を巻末に置き、答えが出せるかどうかによって師匠を評価せよというものであった。自信のある師匠は答えを載せた本を出版し、自身も答えのない問題を添えるという習慣がずっと続いた、1641年に出版した「新篇塵劫記」に始まるこの伝統を遺題継承という。日本の数学はこれによって大いに進歩した。光由は「算法統宗」や「算学啓蒙」を参考にしてこの本を書いたようであるが、引き写したような所はない。珠算で平方根や立方根を求める方法まで書いているが、天元術はない。
- 澤口一之の「古今算法記」
代数方程式の立て方である天元術が紹介されている「算学啓蒙」は、1658年に久田玄哲が訓点付きで翻刻出版し、1672年には星野実宣が注解付きで出版した。しかし、この本の内容をどれだけ理解して注解を付けたのか疑わしいところがある。代数方程式の解法である「開方術」は、昔からある開平方、開立方の術の延長上にあり、数係数の一元代数方程式が対象である。未知数の冪とその係数は算木の置かれる算盤の上下の位置で示されるだけである。そのため、未知数そのものが置かれる場所を明示し、未知数の名前を言って係数1を表す算木を置くことから始めなければならない。これを「天元の一を立て、何々と為す」と言ったが、その解釈があいまいである。
また、数学の問題はすぐに未知数の数が複数の多元方程式になる。その場合、連立方程式をそのまま算盤上に表現することはできない。これを一元方程式に還元するには、補助未知数の消去が欠かせない。朱世傑はそれを言葉で表現し、実行したのであるが、この辺りを理解するのがよほど難しかったようである。この困難を克服して「天元術」をわが物にした最初の人は京都に在住の澤口一之である。1670年に書かれた7巻本「古今算法記」(注5)の最初の3巻は普通の算書であるが、後半の3巻では佐藤正興の「算法根源記」(1669)の遺題150問に答える形で、複数の文字に関する整式を漢文で表記する標準を定め、あいまいさを残すことなくこれを行なってみせた。
【注5】「古今算法記」澤口一之 清水布夫校注、古今算法記、研成社、1993
デカルト流に数式を書くには括弧が欠かせない。ところが、漢文には括弧に相当するものがない。この困難を澤口は今日の論理学でいうポーランド記法を発明することによって切り抜けた。(注6)
【注6】小松彦三郎、和算における代数表現と未知数消去の実際、津田塾大学数学計算機科学研究所報28(2007)
澤口はさらに第七巻としてとびきり難しい遺題15問を付けて当時の数学者達に挑戦した。
- 関孝和の「発微算法」
(報告者注)説明資料には「発微算法」の例題が記されているが、その問題も回答も漢文で書かれており、これの解説は未知数をx,y,z,u,v,wで表し既知数をa,b,c,d,eで表した上、複雑な数式で述べられているので省略した。
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