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日時: | 2006年10月18日(水)11時30分〜14時 |
場所: | 銀座ライオン7丁目店6階 |
出席者: | 59名(内65会会員:江原、大隅、梶本、正林、山根、峯) |
講師: | 劇作家 土井陽子氏(64期) |
演題: | 「芝居っ気 ドラマ作りを通じて思うこと」 |
講師紹介: |
(同期生からの紹介)土井さんは旧姓松本さんと云い、昭和23年の学制改革により、中学3年の時約250名の女子学生と共に大手前高女から北野へ転入してきた。それまで女性のいなかったところへ大勢の女子学生が来たので男子にとっては大事件だった。高校時代の彼女は物理研究会に所属2階片隅の研究室にこもって研究に励んでいた。当時ボロのジャージーで楕円のボールを追いかけていた乞食集団の我々には眩しい存在だった。 その後、大阪女子大国文科に進学、演劇に興味を持ち大学卒業後は関西芸術座に所属、脚本の仕事に従事した。夫君の(故)土井行夫さんは劇作家として知られ、死の直前、初めて書いた小説「名なし鳥飛んだ」で第3回サントリー・ミステリー大賞を受賞した。これから活躍という時に受賞日直前に亡くなられた。夫君の死後土井さんの作家としての活躍は著しく関西TV界の人気番組「部長刑事」を始め「夫婦善哉」「あぶないロマンス」等の脚本を上梓、第18回上方お笑い大賞秋田實賞を受賞した。 来年1月には、能と現代劇の融合を目指した彼女の作品「大原御幸異聞」が東京初台の新国立小劇場で上演される予定。幅広い活躍を続けている土井さんの本日の講演を楽しみにしている。 |
講演内容: (要点のみ) |
(1)私は一寸変わった人生を歩んでいるが、高校の仲間に随分助けられた。本日の演題「芝居っ気」には三つの意味がある。 イ)演じる心、楽しむ心 ロ)人前をつくろい飾る、一寸見栄をはる ハ)人の意表をつくようなものを作る 等である。 (2)サマセット・モームの言葉に「才能などよりも運が良いほうがよい」というのがある。私は多くの人々に助けられ非常に運が良かったと思う。夫の死後この22年間で自分に良い方に考えることが身についた。 (3)先般行なわれたワールドカップサッカーでドイツが敗れた時、名ゴールキーパー、カーンがゴールポストにもたれてくず折れるのを見た時、「負けの美学」もあると感じた。アルベール・カミュは大学時代サッカー部のゴールキーパーであったが、彼は「ボールは自分の思う方向には絶対来ないことを学んだ。そのことがその後の自分の人生に非常にプラスになった」と言っている。 (4)新聞の投稿記事に、「結婚後女児が生まれたが数ヶ月で亡くなった。その後「ひな祭り」のDMが頻繁にきた。非常に残酷と思ったが子供が生きていた証と考え思い直した」というのがあり何事も前向きに考えるべきと思った。 (5)ある雑誌で能力と年齢の関係を示す図表を見た。それによれば、生殖力、筋力などは年齢と共に衰えるが、知力は50歳でやっと一人前になり想像力、洞察力、判断力、決断力などは年を重ねても衰えない。感性はむしろ50代から高まると書いてあった。実業の世界でも感性は極めて大事であると思う。 (6)私の名前、土井陽子は「旧姓松本陽子よりかっこええ」と夫が言ったことがある。確かに、「ど」の土は地面から芽が出る象形文字、「い」は井戸で水、「よう」は太陽で、土に水をやり太陽の光があれば申し分ない。 (7)山本周五郎は「慶長5年に大阪城でどういうことがあったかではなく、同じ頃大阪道修町の商家の丁稚がどういう悲しみを経験したかを書くのが文学だ」と言っている。この言葉に感激した。私が書くのは虚構の世界である。「虚構だからこそ人間の真実が書ける」とも言える。 (8)テレビドラマ「部長刑事」は楽しんで書いた。これが松竹の人の目にとまり松竹から明治の文明開化を時代背景に書いて貰いたいという話が来た。初めての芝居作品「いだてん一代」を書き、翌年「上方お笑い大賞秋田實賞」を受賞した。 (9)また、ある劇団から「源氏物語」を書いて貰いたいという話が来た。大会社と異なり小さい劇団の場合は舞台も小さく、費用も安く上げねばならない。そこで、少し工夫をしてオリジナルな女性を登場させた。それは「夢虫」(蝶の古語)という美しい女盗賊である。通い婚で男が女の元に通う時代に、女の「夢虫」が自分が会いたい時に源氏の前に現れる。 (10)これを松竹の人が見て再び仕事の話が来た。松竹新喜劇は藤山寛美が亡くなり、新しい布陣による再建を図っていた。昼2本、夜2本の内1本を新作で出すこととし、その新作の注文であった。先方の要求はオモロク、題名の中に英語を入れるということ。そこで、ロマンスという英語を入れ「あぶないロマンス」を書いた。これは花嫁を宅配するという物語。その稽古はたったの3回だけでこれには驚いた。その時はそれ程でもなかったようだが、数年前渋谷天外氏に「今読んだらオモロイ」と云われ、その言葉をあの時に言って貰えればと思った。 (11)私には「紅艶隊」と名乗る北野同期の3人の大切な女性後援者がいて、公演の度に「紅艶情報」を流してくださる。芸者の登場する芝居を書いた時のこと、私はそれまで芸者に会ったことがなく困っていたところ早速芸者に会う段取りをつけてくれて大いに助かった。 (12)芝居は、良い役者が揃えば先ずOKである。「夫婦善哉」は1994、95、96年に大阪・東京で演じられたが私と演出者の意見が合わず苦労した。それは最後の場面である。「やっと、ほんまもんの夫婦になったなあ」と言えた場面で、雪が降り出す。林与一さんの柳吉が襟巻きを藤山直美さんの蝶子の腰に巻きつけ、「汽車でいのう」と言う。蝶子はすぐ合点して「シュッシュッ」と答える。柳吉も嬉しく「ポッポッ」と答える。柳吉の幼児性と二人の阿吽の呼吸の夫婦の会話だ。この掛け合いの擬音で話しながら花道を去る。雪が霏々と降る無人の舞台に幕が下りる。新聞の劇評は好評だった。 昨年2月、演舞場、3月大阪松竹座で直美さん、沢田研二さんで再演したが、一枚の肩掛けに包まって普通の会話で去るように変えられた。久世光彦さんに、「面白かったが最後が平凡でつまらなかった」と云われ、経緯を話すと、「妥協するなんて、馬鹿だなあ」と言われた。解ってくれた久世さんは、その数ヶ月後急逝された。 (13)来年1月19日、20日に3回公演する「大原御幸異聞」は非常に大きな“幸運”で実現した。人気・実力共に現代を代表する能楽師、梅若六郎先生が能の監修を引受けて下さり、そうそうたる顔ぶれで公演が実現する運びとなった。物語は、大原の寂光院に出家している建礼門院徳子を、亡父高倉天皇の父君、後白河法皇が訪ねて来られる話。建礼門院は、あくまでも美しく清らかに物憂げに「能」として存在するが、同じ空間に現代語を話す樵が登場する。この樵は建礼門院の美しさに魂を奪われ、報われることなく、独り大原の山中、寂光院の周囲をさ迷って彼女を見守っている。樵の言葉から、その時代背景や人間関係が解りやすく浮かびあがる。現代の凶悪卑劣なストーカーとはかけ離れた純粋な男の言葉から、女としての建礼門院のあわれが炙り出されることであろう。舞台の上で、建礼門院や後白河法皇の品格が、「能」だからこそ最高に表現出来る。「能」そのものを活かし、解りやすく現代語を話す男が同じ空間に異次元のように絡む試みである。 最後は宣伝のようになり恐縮ながら、初めて「能」をご覧になる方も、「能」をお好きで見慣れた方も、この風変わりな舞台を是非ご覧頂きたいと思う。 |