日時: | 2005年11月16日(水)11時30分〜14時 |
場所: | 銀座ライオン7丁目店6階 |
出席者: | 59名(内65会会員:江原、梶本、山根、正林) |
講師: | 建築家、京都大学助教授 竹山 聖(85期) |
演題: | 建築の喜びについて |
講師紹介: | 1954年12月24日大阪豊中市に生まれる。京都大学から東京大学大学院に進学。在学中の79年設計組織アモルフを創設して設計活動を開始。立て続けのコンペ入選で注目を集める。作品に87年「OXY乃木坂(アンドレア・パッラデイオ賞 1991)89年「D・HOTEL大阪」「強羅花壇」91年「青山TERRAZZA」「TBS<ニュース23>ガラスの祭壇スタジオセット」など。 92年より京都大学助教授。学生たちと古代都市遺跡を訪れ、都市発生を探求しつつ、現代都市のヴィジョンを構想。 |
講演内容: (要点のみ) |
自分は昭和29年12月24日クリスマスの夜生まれ、父親は「聖しこの夜」から名前を聖(きよし)と名付けたが建築家としては聖(せい)と称している。
大学を卒業した時、1977年オイルショックのあとで、大手建築会社5社や大手建築事務所は1人も京都大学生を募集せず、「会社が自分を必要としないのなら就職なんかしてやるものか」と会社へは就職はせず、東京大学大学院に入った。その後も一切会社には就職せず、博士課程1年のとき設計組織を設立。自営業をやり、コンペに応募したりしていた。当時20代で業界が業界ならホリエモンのようになったかもしれない。(笑)
86年頃のバブルのころは「倍々」ではなく「10倍10倍」で受注が増え、会計士が「やってみるもんですな」とびっくりしていた。
建築の喜びの1つは建築物をとおしていろいろな現場で輝いている人と会えることです。
91年TBSスタジオセットを造ったときは全部ガラスで、椅子は金属にしたが、常識やぶりと言われ、筑紫さんだけはその椅子を堅いと嫌がっていたが好評であった。山口県のコンサートホールを造ったときはビーズというバンドなどのミュージシャンや指揮者に会えた。島田雅彦映画監督の住宅を造ったり、画家や小説家とも知己になれた。 北野高校では美術部部長をしていたが、舞台美術アドバイザーとして映画の制作にも携わり、昨年国際映画祭に出され、近く封切られる奥平監督、松坂慶子主演の映画「流人」や、クロード・ガニオン監督の信楽を舞台にした映画「KAMATAKI 窯焚」の舞台美術を担当した。「KAMATAKI 窯焚」は今年12月1日NHKハイビジョンで放映され来春封切られる予定だが、モントリオール映画祭で監督賞等いくつかの賞を受けた作品です。 映画も建築も協同作業だが監督や設計者の意図がはっきりしなければならない。出資するクライアント、出演者、職人、設計補助者等全体を束ね、まとめて作り上げる。作り上げるプロセスでは理性と社会性が必要です。 1992年京都大学で講義することになり、豊中の父の家を潰し、自分で設計した家を建て鎌倉から引っ越した。 1993年北野高校の建てかえの話しが出、呼び出しがあって、ファーストスケッチをだして外国に行き帰ったところ、北野高校の設計に携わることになった。東京以外で建築家としてやっていくのは難しく、幸いなことでした。自分の学生の頃は10クラスあったが今は8クラス。9クラスで考えてくれということであった。体育館と講堂の両方を造ることは大阪府が規程で制限しており、講堂は多目的ホールとして造ることになった。多目的ホールは全員が入れる大きさは許されず、やむをえず全員は入れない大きさになっている。 同窓会館は、ホールを包むには合理的な形で、見積もり落としには失敗しないよう大変緊張感をもって設計した。ホールはレクチャー、パーテイ、音楽祭等で利用。ホールの奥には光りの差し込むスペースを造った。瞑想したり、祈るスペースを用意したいと思った。 建築物は社会的なものなので歴史に監査される。一般の建築物でも祈り、超越的なものを感じられる空間、スペースを造りたい。 設計中か、建物が出来てから、クライアントに子供が出来るジンクスを感じている。住宅を造る時は気持ちが高揚して気分が乗るからかもしれない。離婚させる設計もありうると聞いている。 (注) 講演は、設計した建造物の木、水流、光り、景観を利用し、クライアントの希望にかなうよう細かい心配りをし、クライアントと相談しながらいかに設計したかを美しい映像を見せ紹介された。「安城のスタジオ」、「大覚寺の家」、「京都ブライトンホテルのチャーチ」、「千里山の住宅」、「風呂を中心とした住宅」 「旅行会社社長の家」等。 著書:「独身者の住まい」 竹山 聖 広済堂出版 03-3538-7212 1,500円 (報告者注:講演は、パソコン使用によりスクリーンに建築物の映像を映して行われた。) |