六稜NEWS-990708
関東在住68期の会(北野東京31会)
野村監督を囲んで…
reporter:高端正直(68期)
同期の野村徹君は今年から早稲田大学野球部監督に就任し、東京6大学春季リーグで優勝に導いた。これを肴に7月8日、関東在住の同期会を企画。21名が彼の祝勝に集った。
野村君の指導方法や苦労話等の一部をまとめてみた。
野村君の野球関係の主な成績:
昭和30年北野高校3年:夏の予選ベスト4、準決勝でこの年代表になった浪商に3-1で敗退(この試合については今でも鮮明に憶えている)。
昭和35年秋早慶6連戦で故安藤投手とのバッテリーで優勝。
年代不詳(昭和45年頃)大昭和製紙・吉原の監督として都市対抗野球で優勝。
昭和63年近大付属高校を監督として春夏甲子園出場。
2年程前まで、長い間、春秋甲子園でNHKの解説を担当した。
祝勝会での挨拶・会話から:
- 低迷する早大野球部の建直しのために、OB会の満場一致で要請された。次の2点から最初は断ったが、
(1) 62歳という年齢…62歳の監督は大学や高校にはいるが、何年も続けている人で、この歳になってから就任した人はいない。ちなみに早大野球部は120名強の部員がおり、これを力/学年等で4班に分けて1日中練習があり、グランドに出ていなければならない。
(2) 在大阪の兄が病床にある…結局、兄の励ましで、決断した(東京単身赴任)。まさか、1年目に優勝できるとは全く考えてもいなかった。こうなっては、今後が大変である。東大を除く5校はどこが優勝してもおかしくない。特に、法政、明治、慶応が一歩リードしている。
- 監督になってやったことは、技術面よりも健康、精神面を含む生活面の変革であった。いくつもあるが、印象的なのを2つあげると、
(1) 安部寮において門限を決め、朝食を義務づけた…門限がなかったので、ラーメンなど夜食を取り朝食を取らない者がいた。スポーツ選手としては考えられない。
(2) 練習用ユニフォームは無地とする…TシャツにWASEDAとプリントしたのを着ていた者がいたのを止めさせた。伝統あるマークは実力で勝ち取れ、即ち、レギュラーになったらつけられれる。金を払ってつけるものではない。
- 近大付属高校で監督になってまずやったことは、新入部員の健康診断を実施し、体が良いことを条件とした。これで父兄(特に、母親)の信頼を取り付けることに注力し、うまくいった。
- このように彼の指導はまず精神面も含めた健康を基本にしている。早大、近大付属高校といい、入部してくる者は一般より優れた者が多いので、かえって難しいと思われる。
今回、早大で成功したのは、彼が、近大付属高校の監督・甲子園の解説、高野連の仕事を続けてきたから、若者の心を掴み、指導できたからだと思う。彼もそう言っていた。
以上で終わるが彼が言っていたのは、北野高校卒業ということが野球人生で得をしたことが多かったと。早大野球部に入った時、同学年で捕手が10人位いたが、監督は北野OBなら頭が良くインサイドワークが良いだろうと思ってくれた。近大付属高校、今回の早大監督に就任した時、北野OBということで人格を認めてもらうことができた。
Last Update : Jul.29,1999