reporter:菅正徳(69期)
第2次大戦後、GHQの指令で学校での柔剣道は禁じられたが、昭和26(1951)年に佐保田耕作、大塩俶躬氏(65期)らが中心となって柔道同好会を発足。プール横の空き地に畳を敷いて稽古をしていたが、翌昭和27(1952)年に柔道部へと昇格。部員手製の部室も作られ、体育館内で稽古できるようになった。初代主将は林直彦氏(66期)。顧問は福永光司、田中(後に稲葉)憲一郎先生であった。
翌28年に入学して来たのが故古賀陸生氏(68期)で、昭和30年、北野で初めて国体代表選手に選ばれた。また、この年の戦後復活第1回天高戦にも点取りで6-1、勝ち抜きの大将戦で古賀選手は後腰1本で勝ち劇的な勝利を収めた。北野戦後柔道史の第1期黄金時代と言える。昭和33(1963)年にも大阪府民体育大会「高校柔道の部」で宮武和義氏(72期)を主将としたチームが優勝、府下高校柔道界に北野ありとの声が高かった。
その後は私学の台頭もあって今ひとつの成績だが、女子の入部という大きな時代の変化もあるものの北野の柔道の伝統は守られている。平成7年(1995)には13年ぶりに天高戦に総合優勝した記録もある。
柔道部の歴史の中で忘れてならないのは、現在のケントウッド高校との交歓制度のはしりとなった篠原芳雄教諭の同行訪問であろう。先生は柔道指導のために初めてケントウッド高校に滞在したのだが、そのとき同校から嘉納治五郎筆の「自他共栄」の書を送られた。柔友会は学校と共催でこの掲額式を行い、翌平成2(1990)年にはケントウッド高校ウィルソン校長を招待するという事業にも参画した。
北野柔道の歴史を同好会発足から110期の現役までたどることができる今回の写真展の意義は大きかったと思う。ただ、その一方で気懸かりなことは、福田稔教諭(化学/柔友会・柔道部顧問/83期)の「現在の1年部員は男子3人、女子1人…だんだん荒っぽい競技をきらう傾向にある。伝統の天高戦もどうなることか」という悲痛な声である。
なお、当日展覧した写真をご希望の方は柔友会・川畑氏(74期)まで連絡をしてほしい。