六稜NEWS-090801
六稜トークリレー【第67回】
「針目に込めた女たちの哀しみ」森南海子さん@64期
reporter:奈木 進さん@66期
昭和12年7月の日中戦争から、昭和20年8月の太平洋戦争終結までの間、日本全国の至る所で勇ましい戦意高揚の「旗、幟、軍歌」に送られ、何十万、何百万の若者が戦場へ戦場へと出征して行った…。
その裏では、女性達が銃後の守りとして、国防婦人会を結成、隣組の方々と力を会わせ、女学生、小学生までも巻き込み、国防のために奮闘された。
その中の一つに国民歌謡「千人針」がある。
戦時中の古い国民歌謡であるが、聞き覚えておられる方もあることでしょう。
戦後64年、戦後生まれが人口の7.5割に達し、先の大戦は既に歴史の彼方へ忘れられようとしている。そして毎年8月になると、既に死語化してる「日本語、標語」等が甦って来る…そしてあるおぞましさをもって…。この「おぞましさ」は決して忘れてはならないものである。
この8月1日(土)には、北野高校の先輩で服飾デザイナーとして著名な森南海子さんが、忘れられようとしている「千人針」について、展示と講演をされることとなった。
当日は、事前の新聞等マスコミの告知記事もあり、六稜OB・OGが約100名(約半数が戦争体験者)、そして一般市民の方々が約200名ほど、計約300名程が参加され、会場は溢れんばかりの大盛会であった。
入学し、森先輩等と時を同じくした当時、わが国は占領国であり、町中には進駐軍のジープが我が物顔に走り回り、米兵の粋なジャンパー姿は、歌にもなり、憧れの的であった。国産品と言えども全ての商品には「Made in Occupied Japan」の印があった。
そんな時代であり、敗戦国民には、ろくな衣服も無く、森先輩のような方が古い着物とか、洋服の端布でもって所謂「更生服」なるものを各自が考案し、手縫いで自家製の服を作って着ていた時代であった。
森さんは、まずヨーロッパ各地を巡られ、現地の普段着を丹念に見て回った。そこで辿り着かれたのが、ドイツの一修繕屋さんであり、「更生服=リ・フォーム」に魅せられた。帰国後の日本では「手縫いの会」を設立されたり、「刺し子の野良着…伝承の仕事着」に魅せられ、「海女の着用する手拭い」に「セーマン、ドーマン」を発見する。
この話を聞いた瞬間、この「セーマン」の星形は紛れもなく「安倍野晴明」の「五芒星」であると思った。案の定「セーマン」は「安倍野晴明」に、「ドーマン」は「芦屋道満」に…と、いずれも平安末期の有名な陰陽師に由来している事が分った。
それは、当然「魔除、安全」という点で、海女さんがこの記号をお守りとして縫い、信仰の対象にもなったと思う。そこから発展し、千人針にまでなったようであり、様々な民間信仰が付随して合力祈願へと発展したのであろう。
森先輩の展示物、講演を聴いて、日本全国には様々な千人針があることが分った。その裏には、出征して行く一人の男子の背景の諸々が関係しており、胸がつまる思いがした。
◎身長のために甲種合格にならず、やっと徴兵の通知が来た日が終戦という人。
◎南の戦線から無事帰還した若者が「何故生きて帰って来たのか…!!」と母親になじられるが、人目を気にしなくてよくなった途端、熱い抱擁で涙を流して喜んでくれた母親。出征する時には「…死んで帰れと励まされ…」という歌詞(「露営の歌」)もあったほど、そんな時代だったのだ。
◎朝鮮の「高 順愛さん」の千人針は、歯で糸を噛み切ったもの…当時の国情を思うと、こんな方もおられた…のだと、心が疼く。
講演を聴いている最中、小生は、昭和20年1月2日に、千人針と石清水八幡のお守りを入れた奉公袋一つを提げ、寂しく阪急岡町駅までの小道を黙々と歩き、プラットホームで後ろを振り向き、挙手の敬礼をして兵役についた兄の後姿が忘れられない…。その兄は既にこの世にはいない…。
万感の迫り来る思いで森先輩の講演を聴いていた…。
82歳になる義兄は、終戦前日の8月14日に大阪城東側の工廠へ勤労動員でかり出され、警戒警報で学生は防空壕へ避難し、空襲警報で工場は爆撃されて工員は全員爆死したとの事。この兄曰く…当時は男子も千人針と同じように「力」という字を千文字書いたものを作った、と。寅年だった兄は倍書かされた…と言っておりました。
昭和27年頃、わが北野高校の漢文の先生に「福永光司」という方がおられた。後にこの先生が、東洋哲学、老荘哲学、道教の碩学であったとは…。今から30年昔の『遺された対談』という中で、元中国派遣の砲兵隊であった先生はこのような言葉を残されている…。
今、靖国神社問題なんか色々言われていますけれども、例えば、虜囚の身で死んだ兵隊が靖国神社に神様として祀られるかどうか分りませんが、ある時、作業から帰った私に一人の兵隊が「靖国神社を知っていますか」と聞くので、私は神社の境内には入ったことはない、と言うと、それでもいいから話をしてくれと言って、衰弱しきった兵隊のそばに案内されて、その戦友らしい男は「靖国神社は森に囲まれて、お花畑があって、池があって…」と言って、私に同意を求めるのです。私は「そうだ、そうだ」と頷くだけでした。
死んで行く兵隊は、靖国神社に祀られるのを極楽浄土と重ねて考えていたようでしたが、私の嘘を信じながら逝ったのです。それで、私は復員して以来、毎年8月15日前後にはお詣りしています。数珠を持って…。今でも戦争を引きずって生きています…。敗戦後に死んだ兵隊たちに靖国神社に祀られているから、迷うんじゃないよ、と言ってやっているんです。
森南海子先輩、この度の千人針の展示、ご講演、本当に有難うございました。
Last Update: Aug.21,2009