六稜NEWS-080509
▲樵(山口馬木也)が舞台回しの役割を担う
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「大原御幸異聞」を観て
reporter:足立一郎@64期
5月の連休の終わり、大阪の文楽劇場で土井陽子さん脚本・演出による「大原御幸異聞」を観た。
土井さんは64期の華。われわれ同期としては観に行かねばならない。題目をどう読むのかも分からないような能の門外漢であっても。この催しについては、同窓会理事会でも取り上げていただいたし、われわれも同期の同窓会の開催通知に追記して全員に周知した。
舞台は、能と演劇のコラボ形式で淡々と進む。壇ノ浦合戦での平家滅亡後、大原の寂光院に籠もる建礼門院を敬慕しながらその辺りに住みついている樵が舞台回しの役割を担う。この樵が言うには、建礼門院は日ごろお身の回りの世話などさせられないが、あるとき山に入られて雨風が強くなった。お捜しにいくと大変お困りのご様子、そこは高貴のお方、樵に身を預けられて下山されたと。
彼はこれだけしか言わない。
しかし、年甲斐もなく凡夫はあれこれ考えてしまう。雨に濡れた30歳の女体をたぶん背負って樵は平静でいられたかと。掌はどの辺りに組んでいたのか、彼の着衣が変形していたら、門院に気付かれなかったか、前かがみになっているからまず大丈夫だったろうとか……
こんなあらぬ想像をしていると、突然、地謡が始まる。そうして暫くの間、能の幽玄の世界に引き込まれる。そしてまた樵の口上。劇場には2つの時間が流れる。ゆったりした非日常の時間と普通の日常の時間と。これが作者の狙いででもあるのだろうが、口上の後では地謡の部分はまどろっこしく感じてしまう。
たとえばオペラの中に現代劇の機関銃のような早口の言葉のやり取りを、歌舞伎の中に今風の漫才を取り入れると、どんなことになるのだろう。
舞台物にはジャンルによってそれぞれ固有のテンポがある。ジャンルの融合を企図するときテンポの問題をどうするのかが、ちょっと問題なのかなと思った。
last update : Jun.5,2008