「硫黄島の兵隊〜生還した父が遺していったもの」〜吉川清美さん@80期 reporter:矢野 義@58期 この感想文は、58期の矢野 義(ただし)さんが、この度の吉川清美さんの「硫黄島の兵隊」の講演を聴かれたことによって、ご自分の実兄=47期・矢野 達(とおる)さん(陸軍軍医大尉)が、昭和18年5月にアリューシャン列島の【アッツ島】で玉砕し27歳の生涯を終えられた事を回顧され、大変感動し感銘を受けられ、実兄の玉砕についての記録・感想を送って来られた。それをもとに小生(66期・編集子)が纏めたものである。 あの悲惨で過酷な先の大戦が終わり、既に62年が過ぎようとしている。国民の70パーセントが戦後生まれとなり、あの想像を絶する戦争の時代を75パーセントが全く知らない世代となって来た。 あの世代の者にとって、「玉砕」という言葉の響きは、忘れる事の出来ない重みと悲しみを持っている。あの広大な太平洋の北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島までに散らばった島々に於ける壮絶な戦いの中でも、最初に壮絶なる「玉砕」を経験したのは、北海の孤島「アッツ島」である。僅か二千数百の守備隊が、二万の敵を相手に18日間の死闘を繰り広げ、昭和18年5月末に全部隊が全滅したのである。この時はじめて【玉砕】なる表現が使われた。 以後、戦局は不利になる一方であり、ソロモン諸島の「ガダルカナル島」の敗退を切っ掛けに、太平洋の南の島々の守備隊は「マキン、タラワ、ぺリリュー、サイパン、テニヤン、グァム」と次々と「玉砕」をして行った。そして最後とも言えるのが【硫黄島】であり、【沖縄戦】へと続く。 矢野 義さんは兄・達さんの死について、戦後次の事情を米軍から知らされた。 兄を撃った米兵が駆け寄って兄の遺体を調べた処、錦糸の袋に入った小型の聖書が見つかり、その場にいた米軍の従軍牧師に報告された。戦後、その従軍牧師カートリー大佐の努力で、父の写真と聖句の書かれた兄の聖書が両親に返還され、戦死した場所でキリスト教徒として担架の木で組んだ十字架の下にねんごろに葬った旨の手紙が来た。遅れて戦死した場所と十字架の写真も送られて来た。国から渡された遺骨箱には数本の髪の毛が入っててただけだった。戦場から来た兄からの数々の手紙には家族を守るために戦っている決意が記されている。無念の思いに何百万何千万の家族の悲しみのどん底に追いやりながら、「その武功上聞に達せり」、との司令官の感状1枚で戦死者を軍神扱いして人の命をないがしろにして来た戦いを二度と繰り返さないために、平和を追い求める戦いをしなければならない時が今来ている。
アッツ島玉砕当時の国内紙や兄からの手紙は全てスクラップブックに収録されたものを父から引き継いでいるが、米軍の資料として昭和18年9月16日の毎日新聞に「米記者の描いたアッツ皇軍」と題して同年8月14日のサタデー・イヴニング・ポスト誌における軍事記者ラッセル・アナベルの従軍記が記載された資料のみしか無い。 昭和18年5月1日着のアッツ島の兄からの手紙の一部を抜粋する。
先日報道班なる者が来たが、レコードなんかを写してよい場面のみを撮って行ったので、今にニュース映画に出ることと思うが、決してそんなものではないと思って頂きたい。その頃僕は伝染病室で顕微鏡を覗いていたのであるが、報道班はそうした兵隊共の辛い場面を写すには余りにも酷い為に皆避けて行くのであって、このアリューシャンの本当の姿は内地にいる人には決して分らないと思っている。 日本は、油断出来ない。むしろ戦争はこれからで、決して勝っているわけではなく、むしろ相当痛めつけられるかも知れない事を覚悟していないと将来、急に驚くような事になると思う。 本当の事を知って戦う事こそ長い間の心構えだと思う。 吉川さんの話に刺激されて、改めて兄の手紙と米軍の従軍記者の記事を見直して、出来る事なら米軍から見たアッツ島戦記で兄の無念さを新たにしたい、と思い知らされた日であった。吉川清美さんの真摯な努力に頭が下がる思いである。 |