六稜NEWS-070804

北西洋上より見た硫黄島(1996)
「パイプ」という異名の由来がよく分かる写真
この平坦な地形こそが、戦略上「不沈空母」と言われた所以である
六稜トークリレー【第44回】
「硫黄島の兵隊〜生還した父が遺していったもの」〜吉川清美さん@80期

reporter:武 正雄@80期


「おとうさーん、いっしょに帰ろう〜」という叫びに、思わず涙した。吉川さんが平成8年に250数名の慰霊団として硫黄島に行かれ、別れの最後の日に船が硫黄島を一周したという。その時に吉川さんがシャッターを切られた見事な写真(硫黄島全景)から、遺族のみなさんのお父さんへの思い、そして懐かしくも悲しい叫び声が伝わってくる。

吉川さんのお話は、お父上の貴重な体験談である。本も読んだ、映画も見た、でも今回のお話は私には全くそれらとは違ったものであった。実は私は以前から硫黄島に関心があり、『散るど悲しき』も既に読み、映画『父親たちの星条旗』『硫黄島から手紙』を鑑賞済みであった。でも、今回の吉川さんのお話が何よりも臨場感にあふれ、私は感動しなぜか涙が止まらなかった。われわれ北野80期(だけではないが)「戦争知らない子供たち」世代は、これら先人のおかげで平和で豊かな時代を享受した。今日あることに感謝するとともに、この凄まじい先人の生死の戦いをしっかり自分の記憶にとどめておくべきであろう。

 
錆びついた機関砲(1996)
銃口は今も摺鉢山方面…激戦地の方角に向けられたままである。


講話の最後に放映されたビデオを見て驚いたのだが、この戦いに参加した日本兵約21,000名(ほとんど戦死、生還率5%)のほとんどが職業軍人ではなかったという事実である。
それまでの160年有余のアメリカ海兵隊の戦史のなかで、これほど厳しい戦いはなかったと米国高官は証言していた。水も、武器も、食料もほとんど持たない日本軍の兵隊さん(職業軍人でない)が、アメリカ最強部隊にこれほどまでの戦いに挑んだのは、国を思い、家族を思い、故郷を思った故であろう。
この日本軍勇者の魂を胸に刻み、新たな思いで明日を生き抜こうという気持ちになった。それは全く偽りない正直な感想である。

大阪(8月4日)に続き、本日の終戦記念日に吉川さんのお話をうかがうことが出来た(東京六稜倶楽部にて)。ありがとう、吉川さん。吾、団塊満57歳(小生は昭和24年11月13日生まれ)にして、大いなる勇気とますますのチャレンジ精神に奮い立っている。


Last Update: Aug.15,2007