「硫黄島の兵隊〜生還した父が遺していったもの」〜吉川清美さん@80期 reporter:河渕清子@64期 映画『硫黄島からの手紙』が上映中、私は観たい気持ちと見たくない気持ちが複雑に入り混じり、遂に観ずに終わってしまった。「戦争の悲惨さ」をもう目の当たりにしたくなかったからだろう。 戦時中っ子の私たち小学生は、ラジオから流れる大本営発表は、常に我が日本軍の勇躍ぶりを告げるのみだったし、戦況が緊迫状態であることは子供心にも分かっていたが、勝利の日が来ることを100%信じていたのだ。 教室での授業らしいものは減り、おいも作り、松脂とり、行軍、竹槍、手旗信号、モールス信号、などに変わって行った。来るべき「本土決戦」に備えるつもりだったのだろうか? 当時の映画館で上映されるニュースの戦地の様子も、悲惨なものや悲観的要素を含むものは1つもなく、勝ち進むものばかり映っていれば「日本は強い!」と思ったのも当然である。 そういう中、遂にアッツ島、サイパンの玉砕が報道されたのだ。詳細は知らされなかったが「玉砕」の言葉で戦況はただならぬところまで来ているのか?と緊迫感こそあれ、まだ「勝てる」の気持ちは皆が抱いていたのだ。硫黄島については私は日本軍の戦力が敵軍を上回ってるような捉えかたをしていた。 8月15日、初めて聞く玉音放送で日本が負けたことを知った時の口惜しさは、今も強い印象で残っている。 戦後何年か経ってから、ボツボツと戦争の真相が発表され、今迄伏せていた体験記などが世に出て初めて知ったことが何と多いことか…。 著者である、生還者の元越村一等兵の娘の吉川清美さんの訥々とした語り口に、会場の戦争を知ってる者も知らない者も、ただ感動のうちに静粛に耳を傾け映像に食い入るように見つめていた。 全将兵の頭に刻み込ませたという「敢闘の誓い六ヶ条」に「われらは、各自数十人を倒さざれば死んでも死なず」というのがある。吉川さんはここを朗読して「今の平和な世の中で考えるとちょっと滑稽なんですが…」と笑いながら言葉を挟まれた。 私たち戦争を知ってる世代にすれば抵抗なく頭に入る言葉なのに、元兵隊を父に持った彼女でさえ、そういう受け容れ方をするのだから、戦後62年目の日本は平和なのだ。
現地を訪れられた時に、目指すお父様の居られた大隊の道標の前での記念撮影をスクリーンに映し「実はこの時の私の顔が、今までの私の写真の中で一番父によく似ていることに後で気がついたんです…」とも云われていた。 幸いにも吉川さんの父上は生還されたが、あの環境の極悪な硫黄島で、あたら尊い命を国のために失って行った多くの兵士たちのことを思うと「ご苦労さまでした」の一言で片付けるにはあまりにもむごい。彼らは心の底から国のために命を捨てて逝ったのだろうか?或いは追い詰められた責任感の結果だろうか?或いは本心とはうらはらに軍の掟に従わざるを得なかったのだろうか?考え出すと際限はない。 まだ、戦死した多数の遺骨や遺品が激戦地には残っているという。少しでも速くそれらの収集に力を注いでほしいと願うのみである。 ※吉川さんが朗読された、父上が講演会の時に話された末尾の一節。 「戦争を知らないで、一生を終えられたら、これほど幸せなことはありません。硫黄島のあの、熱いガスの充満した地下壕に子供のようにちぢんだ万を超える仲間が、まだあの時と同じ恰好でいるのであります。彼らのみじめな死が、何もかえりみられないままで、歴史の中に埋没されたとして、そして人々は、また同じような死に方を繰り返すとすれば、彼らの死は、徒労でなくして何でありましょう。もしも、彼らの世界に言葉があったら、彼らは何というでしょう。」 2007年8月15 日「終戦記念日」に記す。 |