六稜NEWS-070414
六稜トークリレー【第40回】
「手塚治虫と通年動員〜大阪石綿を共に」金津博直さん@59期
reporter:広実輝子(第22回六稜トークリレー講師)
▲最期の講演の終了後、豊中3中の校長室で金津さんと
かなり疲れた様子が見て取れる手塚さん
金津さん(とあえて呼ばせて頂きます)とは60年前、豊中2中に新任教師としておられた時に、お目にかかっています。また、女学校(当時、中学校と女学校は別学で、5年制でした)の友人が、手塚治虫氏と小学校の同級生であったことから、当時の話を聞いたりしていました。たまたま彼女と山中温泉に泊まっていた夜、電話がかかり「手塚さんが亡くなったって連絡が入った」と肩を落としていたのを忘れることが出来ません。
金津さんと私は同学年、太平洋戦争中の在学でした。昭和20年3月28日卒業、しかも4年と5年が同時卒業、同時入試、合格しても進学は7月までおあずけ、ひたすら学徒勤労動員が続いたのです。中学実学時間(?)は3年余で放り出されたのです。まさに“まま子”…ひねくれますよ。
▲北野59期・4年1組のクラス写真
胸につけた大きな名札は死亡時の本人確認用だった
▲大阪石綿にて(昭和20年(1941)6月・葛野兼一さん撮影)
金津さんのお話を聞きながら、動員中の男女の格差に驚きました。女子のほとんどは下駄をはいています。靴の配給は男子だけだったのでは。昼食も大阪石綿では大豆とお米が出たそうです。女子の(私の行った石産精工で)は“こうりゃん”や“ふすま”(=家畜の飼料!!)の混じった麦めし、それも少量。正に“くさいめし”でした。副食は大根が出来る間は、ずっと大根の煮物でした。
北野を卒業後、金津さんはさらに協和発酵へ動員されたそうです。そこには水飴があり、アルコールが飲めたって?!私達の仲間74名が行ったグリコの工場では、航空食の鉄飴を包装していましたが、友の証言によれば「一粒の飴も食べなかったよ」とのこと。この差は何?「武士は食わねど高楊枝」は女子だったの?生真面目もここまでくれば馬鹿なのか…。その中で矢延昭代は不発の焼夷弾を左胸に受けて逝った。軍国少女は飼い馴らされた羊であったのか…と今さらながら悔しい思い。
工場内でも英語を教えた北野中学の教師。日本の将来に目を据えた、エリート養成への使命を持っておられたのだ、とその格差に改めて驚きました。
Last Update: Apr.22,2007