六稜トークリレーDX【第26回】 reporter:蓑和田 明(66-67期) 12月3日、トークリレーの講演者は「志甫 溥さん」(66期・同窓会副会長・東京六稜会会長)だった。 9月に出た『六稜会報』(45号)に予告が発表されていたので、楽しみにしていた。しかし、楽天との問題があったので、ひょっとしたら中止になるのではないか心配だった。秋の66期の同期会に姿が見られなかったからだ。一週間ほど前、六稜同窓会事務局へ電話したら、予定通りだという。 第二部は恒例の名刺交換会と懇親会、第三部は「ハーモニカ独奏とトーク」六島昭治さん(57期)、「ジャグラー演技」迎田裕輔さん(115期)、そして六稜吹奏楽部OB・OGの人達による「吹奏楽演奏」となっている。三階の会場はほぼ満員の盛況だった。 第一部、志甫さんの講演のテーマは「六稜人の思い出」だ。渡された資料には、パソコンで写真が三枚焼き付けてあった。北京の郊外、万里の長城の上で田中首相を取り囲んでいる記者団、首相の顔のアップ(1972年9月27日)、それと北京の人民大食堂で催された歓迎晩餐会の写真だ。どんな話になるのか、期待で胸が膨らんだ。 日中国交回復の調印式の時、田中首相と同行した日本記者団の一員(TBS報道部)として、志甫さんは北京を訪れた。日本語の話せる人を通訳として中国各地から集めた。その中の一人に段元培(64期)という北野の先輩がいた。万里の長城で写した記者団の一人に白い丸印がしてある。それが段さんだという。しかし、志甫さんはその事を後で知り、いろいろと手を尽くしたが、本人とは会えなかったという。田中首相が返礼に催した晩餐会で、偶然、中国の要人を見送る列の後尾に並ぶことになり、周恩来と握手が出来たという話は印象的だった。 大先輩、森繁久弥さん(44、45期)の話になる。演劇部に所属し、放課後、講堂で劇の練習をしていたら、たまたま森繁さんが学校へやって来た。校長室へ呼ばれて会うことになる。森繁さんもまだこれからという頃で、若くて溌剌としていた。演じるという彼のこつを、実際にして見せてくれたという。年を取ってからも森繁さんはまた北野を訪れている。その時撮られたビデオがあり、会場で上映された。車椅子に乗っている森繁さんは校歌を歌い、生徒たちの質問に答えていた。しかし耳が遠く、聞きもらす場面も時々あった。「僕みたいな落第生も、たまにいていいのじゃないか・・・」にやりと笑った。別れる時、女生徒とは特にうれしそうに握手をしていた。 志甫さんはTBSで仕事をしていたから社内で森繁さんを見かけたこともある。しかし、すれ違いのような状態であったから、話は出来なかった。校長室で会った話をする機会が訪れたのはずっと後、昨年のことだった。 久世光彦氏が、森繁久弥との聞き書きエッセイを『週刊新潮』に連載していた。それをまとめた単行本『生きていりゃこそ』が、昨年五月に発売になる。その出版記念会に志甫さんも招かれた。久世氏と縁戚関係にあったからだ。やはり耳が遠く、再度の説明でやっとわかったようだった。「おかしいなぁ、いつのまにか老人になっている」―この本の中にある森繁さんの言葉だ。志甫さんの講演は中国人の先輩、段さんから始まり、森繁久弥さんで終わった。 その後、志甫さん提供の本などTBS関係の記念品の抽選会、名刺交換会があり、第三部が始まった。 八十歳だという六島さんはどう見てもそのようなお年に見えない。小柄だがかくしゃくたるもので、ハーモニカを何本も持ち替えながら、説明を交え長時間立ったままの熱演 だった。プロ用の超難曲だというティゴイネル・ワイゼン(サラサーテ)は見事だった。志甫さんも前の席で拍手を送っていた。 その後、若い迎田さんのユーモアを交えたジャグラー演技があり、直ぐに吹奏楽演奏に移った。すでに時間は午後六時を回っていた。余り練習をしていないということだったが、よくまとまった演奏だった。 志甫さんは、この時私の右隣の席にいた。最後の演奏が終わり、ちょっと拍手をしてから、「アンコール! アンコール!」 と声を上げた。私たちもそれに声をあわせた。 OB・OGといっても、皆若い。顔を見合わせとまどっていた。ドラムを叩いていたリーダ格の人が立ち上がって頭を下げた。「まさか こんなことになるとは思ってもいなかったので、練習してきておりません。申し訳ありませんが、一番最初の曲をもう一度、演奏させてもらいます」こうして再演の一曲があり、大きな拍手のうちに、昨年最後のトークリレーの幕は下りた。 私は会場を出ようとしている志甫さんと固く握手をして別れた。講演は予想にたがわず、志甫さんの持ち味が出たいい内容だった。講演とは関係ないが、もう一つ、今も脳裏に残っている姿がある。確か、ハーモニカの演奏が終わった時だったと思う。前に出ていた机を会館運営委員の人と一緒に片付けている姿だ。中々できないことだと。感動し、教えられるものがあった。 |