六稜ト−クリレ−【第22回】 「ほむら野に立つ〜私を救った北野生」広実輝子さん
reporter:植田道子(66期) 昭和20年3月13日の大阪大空襲以来、警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴る日が増えて来ました。当時、中学生、女学生に勤労動員がかかり、多くの学徒達が軍需工場へ動員されているのは知っていましたが、あの当時、北野中学生と豊中高女生が麦畑の中の今の庄内地区の「石産精工」で、戦闘機・紫電改を製作しておられたことは知りませんでした。 昭和20年6月7日の空襲は、非常に大規模なもので、あの時広実さん等、豊中高女の若い少女達も、そして北野中学生等も地獄の様な修羅場で、焼夷弾に焼かれ、機銃掃射で追い回され、終生忘れえぬ体験をされていたのですね。 当時、私は小4でしたが、私もこの空襲に遭い命からがら逃げ逃げ回っている最中でした。その時、私は曽根の現在の市民会館のすぐ東側の親戚の家に疎開しておりまして、庭に作った防空壕に入っていましたら、家の近くに爆弾が落ちた、と言うことで防空壕より出ましたら、午前中なのに夕闇のように暗く、少しして明るくなり、ふと見ると我が家がつぶれ跡形もなくなっていました。 親戚の人と中豊島小学校の方へ避難しましたが、その途中私の顔の前に焼夷弾が落ちて来て、50センチ前を走っていたら北野中学の村川さんのように直撃されていたと思います。中豊島小学校の横の麦畑へ逃げてやっと命は助かりました。でも余り戦争の恐ろしさなど分からず、只大人の言う通り従って行動していましたが、60年経った今もはっきりと麦畑まで走って逃げた事を覚えています。 当時は庄内駅もなく、学徒勤労動員の方々は三国駅より歩いて石産精工へ通われていたと思います。当時は阪急電車に乗る時、車両も男子中学生は前、豊中高女、梅花女学校の女子生徒は後の車両と別々に乗っていたようです。今は男女が抱きついて自転車の二人乗りしている光景など当時の学生には夢のような、いや夢でさえ考えられなかった事でしょう。 又、広実さんの左腕の傷を見せて頂きましたが、さぞ苦しく痛かった事と…60年間ご不自由なされた事とお察し致します。 丁度、戦後60年という年に当たり、テレビなどで当時の事が放映されているのを見聞きしたり、又広実さんのお話を聴いて私達より年代の後の人は、動員もなく戦争にも行かずに済んで何と幸せであった事かと感謝の気持ちで一杯の今日この頃です。 広実さん達より上の方々の大変なご苦労があって、今の平和な日本があるのだと思います。世界では、テロや戦争が今でもありますが、折角皆この世に生まれて来た尊い命を大切にして仲良く生きて行かなければいけない、と痛切に感じました。 |