六稜ト−クリレ−【第22回】
「ほむら野に立つ〜私を救った北野生」広実輝子さん
reporter:美川和子
広実輝子さんは、私が豊中4中で教えて頂いた先生です。
昭和20年6月7日、先生が軍需工場で大空襲に遭われたその日、私は何をしていたのでしょうか。父の作った防空壕の中で震えていたと思います。学生が勉強もさせてもらえず、戦争に荷担させられ、挙句の果ては命を落としたり、命に関わる大怪我をさせられたりした戦争。お国の為を大義名分に否応なしに狩り出された軍需工場の仕事、十六歳までの子供達に課せられた任務が如何に大きなものであったか…先生のお話から伺えます。
その仕事の最中にも容赦のない空襲に襲われ、泥濘の麦畑の中を右往左往して逃げ惑う姿が目に浮かびます。どんなにか怖かった事でしょう。B29による焼夷弾による爆撃、戦闘機による機銃掃射によって左腕を打ち抜かれた時、骨が何本も折れたと思われた様ですが、今の普通の女学生なら倒れたままだったのではないでしょうか。
しかも先生は「生きる」という意識をはっきりと持たれ、右腕で出来る救急の処置をされた事…本当に立派だと思います。
必死で逃げる道行く人は誰も振り向いてくれなかった中、一人のおじさんが呼び声に立ち止まって助けて下さり、一人では無理と片方を支える為に一人の中学生を呼び止め、二人で助けて下さったとの事。何度も何度も執拗に頭上を旋回して来ては機銃掃射を受ける内に、このおじさんは姿を消してしまいました。多分、この時犠牲になられたかと情況が目に浮かびます。どんなにか心を痛められた事でしょう…この方はきっと救いの神様であったのだろう…聞いていた私も涙が止まりませんでした。
先生は中学生の献身的な助けでその場は救われたと思います。そしてこの中学生が、何と北野中学生の湯本忠三さんでありました。その後先生の生きようとした意志の強さ、また、両親の深い愛情が治療して下さったお医者さんにも伝わったのでしょう。だから今の先生がいらっしゃるのだと思います。
あの当時、日本中で何人の学生がこんな目に遭っていた事でしょう。広島で、長崎で、沖縄で、そして日本国中で…。
人が人を殺し、広く長く悲劇をもたらす戦争は、あってはならないと思います。今も罪もないイラクの一般市民、子供達が戦争に巻き込まれ大切な命とさて頂を落としています。亡くなった人達にもこれから希望に充ちた将来があった筈です。それが何の理由もなく断ち切られてしまいました。その人達の人生に誰が責任をとってくれるのでしょうか。いま国会では、憲法を代える動きが出ていますが、戦争放棄だけは守って残したいものです。
最後に先生を助けて下さった北野中学の湯本忠三さんが亡くなられていた事は残念な事でした。この日の講演に、この湯本さんのお兄さんの親族の方々が、わざわざ広実先生に花束を持ってお見えになっておられたのには、胸を打たれました。最後にもう一度、戦争は絶対反対です。と申し上げて感想とさせて頂きます。
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