六稜NEWS-050409
    六稜ト−クリレ−【第18回】
    「アニメと写真で語る手塚作品
    『ある街角の物語』に秘められたもの」
    岡原進(59期)さん

    reporter:田浦紀子


    4月9日(土)、手塚先生の母校・北野高校で、「六稜トークリレー」が開催されました。今回は「鉄腕アトム」の誕生日に合わせて、手塚先生と同期の岡原進さんが講演されるとのこと。虫プロ第1作『ある街角の物語』の同時上映もあるということで、早くから楽しみにしておりました。事前に新聞やラジオ等で講演に関するニュースがあったためか、私達が会場に着いた時は100人を超す聴衆でにぎわっていました。

    カメラマンの岡原進さんは北野中学時代、手塚先生とは美術部で一緒だったために仲が良かったそうです。当時、暗い絵が主流だったのに対し、お二人は明るい絵ばかり描いて、よく注意されたとか。しかし次第に戦況が悪化し、絵を描くどころではなくなってきたようです。手塚先生は身体が弱かったために仁川の軍事修練所へ。仁川の修練所といえば、腕に水虫が出来て切断寸前までいった…という悪名高いエピソードが有名。手塚先生はエッセイ等で、鉄条網で囲まれ、栄養失調にまでなった酷い訓練所のように書かれていますが、岡原さん曰く「そんなアウシュビッツみたいなとこじゃなかった」そうです(笑)。手塚先生は夜中に皆の寝姿をささっと描き、「ラグビートライ型」とか「野球セーフ型」などタイトルを付けて貼り出したそうです。これが運悪く舎監に見つかり、怒られる…と思いきや、「手塚、こんなん描いてるから寝られへんのやないか」と笑われたとか。

    岡原さんが手塚先生に再会したのは1961年の同窓会。「どうも、どうも、元気?」と声をかけてきた手塚先生は北野時代からは想像もつかないくらい背が高くなっていて、岡原さんはびっくりされたそうです。翌年、岡原さんは奥様とご一緒に富士見台の虫プロを訪問。そこでちょうど制作中だったのが『ある街角の物語』。作品の後半で100枚以上の独裁者のポスターが行進するシーンがありますが、手塚先生は「これが出来ればこの作品は完成するんだ!」と熱をこめて語っていらっしゃったそうです。その独裁者の顔が陸軍少将だった岡原さんのお父様に似ている、と岡原さんが手塚先生に言うと、 「ああ、岡原閣下もハゲてたなぁ」と二人で笑いあったとか。

    『ある街角の物語』ですが、改めて見るととてもいい作品ですね。テレビがモノクロだった時代にフルカラーで、ここまで綺麗な色合いのアニメ表現が出来たことは素晴らしいと思いました。そして、随所に手塚先生のアニメーションへのこだわりと手塚的ペシミズムを感じました。最後に1枚だけ独裁者のポスターが残っているのはどういう意味なのか?しかし、残念ながらこれを見ながら手塚先生とこの作品について語り合うことは無かったと言います。

    この他にも、岡原さんが月刊誌『教育大阪』の取材で手塚家を取材された時のエピソードや、岡原さんが撮影された手塚先生の写真が多数披露されました。これらの写真は、地下一階でも展示され、普段見たことのない珍しい手塚先生の写真に見入りました。

    『教育大阪』の取材の折、話の中で手塚先生はこう言われたそうです。「耕されていない荒地を歩くのが好き」と。戦後ストーリーマンガとアニメの先駆者として常に第一線を走ってこられた手塚先生のスピリットを強く感じさせられる一言でしょう。


    Last Update: Apr.27,2005