六稜NEWS-041002
六稜ト−クリレ−【第13回】
「芝居っ気〜ドラマづくりを通じて想うこと」
土井陽子(64期)さん
reporter:今井滋郎(64期)
この日集まった64期生27人、石田千代之輔先生など総勢52人を前に、イチローが先程ヒットを2本放ってジョージ・シスラーの年間記録(257)を84年ぶりに更新した、というホットニュースから土井トークは始まった。それは、仕事をはじめた経緯、創作活動に大きな力を与えてくれた人びと、自作品の背景・裏話など、話題は23項目にわたった。
【出発】
それまで何もしていなかったが、夫が亡くなって50才から1人でこの仕事を始めた。北野でも何となく過ごしてきたが、いつも人に背中を押されてきて、今日あるのも皆さんの応援のお蔭と感謝している。 サマセット・モームは「長い目で見れば、金持ちや利口より運の良い方がいい」と言ったが、私は運を頼りにやってきた。
『芝居っ気』は広辞苑には、「芝居心」「人前をつくろい飾る心」「人の意表に出るような事を仕組み構える魂胆」とある。遅れて出発した作家としては、ちょっぴり見栄張って、たっぷりと“芝居っ気”を効かせたドラマづくりを心掛けてきた。
【高齢でなお活躍する人びと】
*小泉淳作:76才のときに建仁寺の天井画のための制作を始め、108畳の和紙に龍を描いて2年後の2002年に奉納。
*片岡球子:99才で「極める――人間と山」と題する絵画展。来年1月には百歳の現役。
*アガサ・クリスティ:81才まで沢山のベストセラーを書き続けた。
*犬養道子:43才でハーバード大学に入学。そこに「21世紀の都市空間」をテーマに研究する91才の女子学生がいた。また、道子は50才で登山を始めてアルプスにも登ったが、そのときの山案内人は80才の女性であった。
*斉藤 史:結社「原型」を興し、2002年93才で没するまで短歌で活躍をつづけた。
*能力と年齢の相関図:一般的な能力は、加齢によって低下するが、知力(想像力・洞察力・判断力・決断力など)は50才でピークを迎え、それを過ぎても殆んど落ちることなく、感性はむしろ50才から上がるというありがたいデータがある。
【智恵と勇気をもらった言葉など】
○「不幸であることのしあわせ」(フランスの諺)→夫が元気なら自分は書いていない、不幸がバネになった。
○「ボールは絶対自分の思った方向には来ない」(アルベール・カミュ、大学時サッカー部のGK)
○「アイディアは歳をとるほど豊かになる」(世界で8千万部売ったディック・ブルーナ)
○「朝ふとんの中で目覚めるとき閃いた」(湯川秀樹の中間子理論発見)
○「メモしないと忘れるものが本物、メモなしで憶えるものはたいしたことない」(福井謙一の家中にはメモと鉛筆)
○「夢しか実現しない」(神戸大・金井寿宏)
○「大発見の殆どは偶然だ」(野依良治)
○「一番大切なのは気力と熱意」(宇宙船外活動の土井隆雄)
○「刻苦勉励も結構やが、のびやかな遊び心が必要」(「美感遊創」を標榜するサントリー佐治敬三)
○「オリジナリティ・イズ・ベスト」(ソニー盛田昭夫)→芝居でも「パクリ」があるが、自分しか書けないものをと努めた。
○「忘れ草 わが紐につく香具山の 古りにし里を 忘れむがため」(大伴旅人)
「忘れるにまかせることが、結局最も美しく思い出すことなんだ」(川端康成)
○大阪人のアイディア、新しがり:
稲畑勝太郎
は明治30年、フランス留学時の同級生だったオーギュスト・リュミエール(映画を発明)からフィルムと映写機を輸入し、日本で初めて大阪の南地演舞場で上映。追うように、二番手の荒木和一もまた大阪の新地演舞場でエジソンから買付けて上映した。
【作品について】
*部長刑事シリーズ「カプセルホテル殺人事件」、絶えずフレッシュな素材を求め、当時新タイプのホテルを題材に。
*同シリーズ「危険な14才」では、すぐに切れる、と社会問題化していたボタンエイジを扱ったが、その10年後、実際に神戸で少年A(14)事件が起こった。
*「いだてん一代」(1989)、初めての芝居作品で大勢の六稜観客にご覧いただいた。翌年「上方お笑い大賞秋田實賞」を頂いた。
*『舞い舞い虫独り奇術』は、明治の千日前を舞台にして当時のワーキングウーマンを主人公にし、編集工房ノアが出版したが、いずれこれを芝居に……。出版に当たってはずいぶん苦労したが、編集者アンドレ・バーナード著『まことに残念ですが』(徳間書店)には、当初編集者から断られ、のちにベストセラーとなった『チャタレー夫人の恋人』やパールバック『大地』など豊富な事例が収められている。 *「慶長5年9月に大坂城でどういうことがあったかではなく、同じ頃、道修町のある商家の丁稚がどんな悲しい思いをしたか、を研究するのが文学だ」と山本周五郎は言ったが、自分も同じ目線で千日前や庶民レベルの話を目指している。
最後に、斉藤 史の「老いてなほ 艶(えん)とよぶべきものありや 花は始めも終わりもよろし」で、今日の土井トークは締めくくられた。
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恩師石田千代之輔先生を囲んで
〜土井講師と64期の皆さん
「北野出身なら土井陽子を知ってるか?」と研究会で友人に訊ねられたけれども心当たりはなかった。六稜同窓会名簿に当たってそれが64期の松本陽子と判った。
松本陽子なら1年3組で同級、それに美術部の写真には岡島先生を囲む部員14人の中に写っていたが、クラスで話した記憶もないし美術教室で一緒に絵を描いた憶えもない。
15年ほど前、『紅艶隊』を名乗るピンク色の怪しげな封筒が届いた。北村芙佐子・中尾耀子・森武子三人の連名で、“オマツ”こと土井陽子が初めて書き下ろした「いだてん一代」が国立文楽劇場で公演されるから、みんな揃って観に来るようにとの64期生宛の召集状であった。以来、くぐったこともない中座の暖簾を数回くぐることになり、大雨のポートアイランドのジーベック・ホールでの能と現代劇のコラボレーション「大原御幸異聞」にも出掛けて、「黒援隊」の末席に連なることになった。
そのオマツが小説『舞い舞い虫独り奇術』を書いたという。新阪急ホテルで出版記念パーティを催すから出頭せよ、との紅艶隊からの呼出し状である。3年前の6月のことで、オマツ67才の処女出版祝いに集まって祝辞を述べた来賓は、桂米朝、藤本義一、大村昆、露の五郎、林与一他、関西芸能界揃い踏みとなった。
1958年からラジオドラマを書き始め、女子大では演劇部に属して関西芸術座に入ったが、脚本家の土井行夫氏と結婚してからのオマツは、主婦として育児に専念していた。
この平凡な主婦の人生は、1985年の夫君・行夫氏の死によって大きく変わる。最後の作品となった『名なし鳥 飛んだ』がサントリー・ミステリー大賞候補に上がったらしいことを耳にしたまま、氏は3月7日に亡くなってしまった。その20日後に授賞式があり、何もかも一人で切り回していたオマツは頭の中が真っ白のまま東京に向かった。「大賞ご受賞おめでとうございます」と述べるところ、亡夫代理のオマツを前に主催者は言葉に窮した。
翌1986年に執筆再開し、テレビ台本「部長刑事」他、舞台劇脚本「いだてん一代」をはじめとする創作活動が全開した。
オクテで人生体験に乏しい普通の主婦だったと自らを振り返るオマツが、50才で突然、作家に変身してから20年。アンテナと野次馬根性で素材・情報収集に努め、想像力をふり絞って妖しい話も疑似体験的に書けるようになったオマツだが、今日のトークで披露されたような人たちの思想・エネルギーを貪欲に吸収しながら成長してきたその姿は、まるで熱帯性低気圧が周辺のエネルギーを取り込んで台風に発達してゆく様を彷彿とさせた。
コシノ3姉妹の母・小篠綾子(91)は80才になったとき「人生これからやで!」と言ったが、土井陽子たかが70。人生まだまだこれからやで。
Last Update: Oct.15,2004