六稜NEWS-040508
兵庫相互銀行 十三支店で開催された
「陸奥」展(昭和46年11月25〜27日)
六稜ト−クリレ−【第8回】
「人生よもやま話〜戦艦陸奥から出た北野中学のバックル」
阿部源三郎(50期)さん
reporter:植田道子(66期)
去る5月8日(土)の第8回六稜トークリレー「人生よもやま話」・阿部源三郎先生(50期)の講演に参加させて頂いた。午後2時、奈木氏の司会が始まり壇上に立たれた先生を拝見するや、姿勢がよく若々しく見え、「この方が50期卆…本当か…」と思うやいなや講演が始まり、お声を聴いてびっくり…大きく、張りと艶があり夢中でお話を聴かせて頂きました。
和漢薬問屋の三男坊
にお生まれになった
先生のプロフィールは大正8年(1919年)、道修町にある和漢薬の問屋の三男としてお生まれになり、子供の頃より陽気ですばしこくあちこちの友達の家に遊びに行き皆に可愛がられ成績も優秀な方だったそうです。
北野中学校卒業のあと昭和18年、大阪帝国大学医学部をご卒業となり、第ニ内科教室に入られたが、間も無く海軍軍医見習尉官に任官、軍医大尉として終戦を迎えられ、無事帰国された。それから予防医学を中心に半世紀以上貢献されています。
さて、当日のお話は戦艦陸奥に乗っておられた田中鋭夫(としお)さん・50期が着けておられた北野中学のバックルのお話でした。昭和18年6月8日正午頃、瀬戸内海柱島沖にて火薬庫爆発により、艦は沈没殉職され、昭和46年陸奥が引き揚げられた時、バックルが出て来て当時は誰のものか分からずバックルに刻み込まれた文字より同級生の「西田驍夫氏(のちの北野高校・物理の先生)」や他の方々のご尽力により同期の田中鋭夫(としお)さんのものと分かり、これをご兄妹に渡され遺品が無かった身内の方々は非常に喜んでバックルを受取られた、という事です。
一番右が田中鋭夫さん
阿部さんは左から2番目
(昭和10年、北中4年生の頃)
戦艦陸奥の甲板の一部60センチ位の長さの木片(ラワン材)も見せて頂きました。これは現在北野高校図書館に保管されています(同期の平佐國夫氏・故人のご寄贈によります)。隊員の方々が毎日この甲板を磨いておられたのだろう、と思い目頭が熱くなりました。
私も小学校4年生の時、空襲に遭い焼夷弾の落ちてくる中を逃げ惑った記憶があります。また海軍はインターナショナルだとか制服が格好よく、港々でよくもてたとお話して下さいました。
最後に先生の若さと健康の秘訣はと言う事になり、先生は商売に喩えて「仕入れ(食べる事)と販売(消化吸収しエネルギーとして出る事)に気をつけ毎日棚卸しをする様に」。例えば、「今夜飲みに行くとすると、昼食は軽くうどん位で済ませ、夜の食べ過ぎカロリーの摂り過ぎを1日のトータルで一定にする様心がける」。
先生は、長年61kgの体重を保っておられるそうで、機械も体も長いこと使っていると故障するのは仕方の無い事で、大事に使って在庫管理(セルフコントロール)をしっかりする事。お酒はほどほどに、タバコは駄目、サラ金も駄目と笑わされ、人生前向きで、人の世話(ボランティア)をする事が大事、と締めくくられた。
そして朗々とした大きな声で「さ〜らばラバウルよ〜……」と「ラバウル航空隊」を歌って下さり、戦艦陸奥の甲板の一部を持って当時の海軍関係者と共に記念集合写真を撮って頂き、講演会は大変な熱気と盛り上がりの内に終了した。私は先生に握手をして頂き、パワーを一杯頂いて、地域の為に尚一層頑張ろう、と感動しながら帰路についた。
阿部先生がいつまでも若々しくお元気でご活躍されます事をお祈りし、また戦死された方々のご冥福をお祈り申し上げます。
阿部さんが持っているのが、戦艦陸奥の甲板のラワン材(北野高校蔵)
Last Update: Jun.10,2004