特別寄稿「手塚氏と六稜魂」
reporter:田村哲也(59期) | |
「六稜の星のしるしを」は、同窓会だけではなく、カラオケで歌う時でも、必ず、先かあとに、自分の心の中に潜む誇りあるものとして歌ったものです。もう一つの校歌「洋々と湛う大淀川」よりも、私の口にはすっと出て来る…旧制高等学校の寮歌も歌うが「六稜の星のしるしを」は忘れられない歌詞であり、メロディであります。 そういう気概を持った六稜の卒業生は、今どれくらい、いるでしょうか。同期や同窓や同級生を大切に思う心を自分の奥底に秘めている人がどれくらいいるのかなあと思う。 「日本人である」と思うこと自体を古い人間と毛嫌いする日本人がこの頃多い。おかしいとは思いませんか。拉致された有本恵子さんの親御さんと直に話した時も、私の年代と同じその親御さんとは「先ず自分が日本人であることを忘れてしまっている人が多くなって貰っては困るなあ」と意見が一致したのですが、その原因は一体、何でしょうか。 ○○魂などと云うと「何て頑迷固陋な奴が物言いよる」と眼と耳に蓋をする人がいるかも知れませんが、私は、敢えてソフトな意味で“六稜魂”と言いたい。そこには六稜根性と言っても言い足りないものがあるのです。 手塚氏の漫画の中心に存在しているのに、トークでは敢えて林氏は詳しく言及をしなかったが、戦争の被害をもろに受けた北野59期前後の卒業生が、いまだに元気に頑張っているのも、六稜魂のおかげではありませんか。 手塚治虫氏が書いた漫画には、反戦思想が潜んでいるとかで、○○賞をやれないと言う偉い人が昭和40年頃にはいたが、こんな考え方の人が、はびこっている間は、日本の国は決して良くはならないでしょう。戦争がどれ程ひどいものかを知っている人たちなら、そんなことは言えないはずです。 私たちの多くは、日本ペイントの工場で亜鉛華や鉛丹にまみれて、飛行機や船舶の塗料作りで働いていました。手塚氏は、動員先の石綿工場で、頭のてっぺんから足の先まで真っ白な姿になって働いていた、と林氏は語っていましたが、私も、中津の大仁本町の工場で、手塚氏に会った時に見た彼の真っ白な姿を忘れよと言われても忘れることは出来ません。 15年前に手塚氏が、脳の奥に出来た悪性腫瘍で頭が痛いと言い出したのが11月頃で、そのあくる年の2月に亡くなりました。その間、59期生の医者たちは、みんな協力して最大限の手当を施しましたが、戦争中の動員で石綿を扱った作業の所為で、手塚氏の体全体に害毒を流す毒物が沈殿していたのかもしれないと思うと心が痛むのです。林氏の話を聴きながら、石綿の粉末で真っ白になった手塚氏の姿を思い出していました。 北中1年生の時の写真を眺めると、すでに天国へ旅立った友人が大分いるが、私はまだその写真の中にいる一人として生きています。 確か1年生の時だったか、昼休みに教室にいた私のところへ手塚氏がやってきて「月の土地を購入する契約書」を作成したのだがと、鉛筆書きの紙切れを見せてくれました。「お遊び」のつもりだったと思いますが、帳面の一頁を切り取って書いた黄ばんだ紙の最後に「宇宙協会 理事長 原田??」と書いてあったのを憶えています。 内容はほとんど忘れましたが、申し込み書形式で、( )坪(但し一坪一円十五錢也)と但し書きがありました(この一坪の値段はうろ覚えですが、のちに大阪万博が開催された千里丘陵の砂地でビルも建たない土地が、当時の価格で、坪一円五十錢とか言われていた時代です)。月面の土地の購入契約書なんていう突飛な発想を私の処に持ってきたのは、手塚氏が、私のことを多少変わった人間と見做していたからかも知れません。阪急の宝塚線で石橋から十三までの行きか帰りにちょこちょこ話したことがあります。私学出身の私も、科学朝日や、子供科学などをずっと取っていたほか、従兄が阪大医学部の医局で、ツベルクリンの開発やBCGのワクチンのような研究をしていることや、理学部の荒勝グル−プ(のちの甲南大学学長)に属して、最先端の原子力の研究をやっていたことなどを彼に話していたから、彼は私が満更馬鹿でもなさそうだと睨んでいたのかも知れません。 私は、北野中学の帰りに歌島橋から阪神で出入橋に行き、竹尾結核研究所に寄り道して、色々広い研究室で遊んで帰っていた。遊ぶといっても、もちろん、ピペットで薬品の入った添加液を滴下する手伝いをさせて貰ったり、簡単な電流を使用した実験めいたこともしたりしていました。 江戸堀にあった藤原良章氏の家が昭和20年の空襲で焼けた時に、親御さんは藤原氏を四国の観音寺に連れて帰りたかったのかも知れませんが、本人は第三高等学校への入学が決まっていたし、田村校長(同姓だが私とは無関係)に「四国へ行くなら、退学せよ」といわれていた(今から考えるとおかしい事だが、良章氏は「校長に厳命されていた」と受け取っていた)ので、藤原良章氏を私の家に預かることになった。 丁度、私の小学校の先輩でもあり、北野中学の一年先輩の藤原出氏(58期)(のちの大阪府立大学理学部教授)のご父兄のご依頼でもあったので、延長動員の間、箕面で共に生活をすることになった(延長動員とは、昭和20年3月に59期生は卒業したが、慣れた工場を離れると軍需生産に支障をきたすのでそのまま同じ工場に残された)。 もちろん私の家はボランティアで預かっていたのだが、藤原良章氏が、日本ペイントの6月の爆撃で亡くなった時、その事情を確かめに四国から出て来られた父兄に対して、学校当局は、彼の死んだ状況を何もまともに説明はされなかった。そんな学校の状態に愛想を尽かして、以後、この4月10日の林氏のトークリレー「手塚治虫と昆虫」の集まりまでの59年間、私は北野の敷地に足を踏み入れることはなかった。勿論、私は決して、北野教育を拒否していた訳ではありませんが、誰が北野を潰すような事をやったのか。卒業生諸氏皆さんで考えてください。「六稜魂」は、絶対捨ててはならない。手塚氏を育てたのも六稜魂であると林氏の話を聴いて益々確信を深めました。アトムに見える先見性の素晴らしさと深さ、洞察力の鋭さと緻密さ、科学と自然の結び付きを示す正確さ。たとえ、1年でも北野の教育に足を踏み入れた人は、みんな六稜魂に触れているのです。いつまでもその素晴らしい六稜の意志は、その人の心の中に生きているものです。 要するに、北野の自由で先見性のあった教育を、もう一度、新たに掘り下げてみる必要があるのではないでしょうか。研究といっても大げさなことではなく、戦時中に他所へ追いやられた自由で闊達な長坂校長時代までの、北野中学の教員や、教育の中で、記録にとどめるべきものを、はっきりと同窓会で研究して現在の教育に活かして欲しいものだと思います。 私が、公立中学校・公立高等学校20年、国立明石工業高等専門学校・神戸学院女子短期大学30年、と教育に従事した私の経験からも、「六稜魂」の大切さをひしひしと思い返し、改めてこれを強調するのです。 |