冒頭、NHK連続アニメ番組『火の鳥』の開始に当って、前の週に放映されたばかりの手塚治虫紹介番組のビデオが映し出された。
宝塚・川面の手塚邸前の楠の大樹を背に、少年・手塚治虫の語り部として出演された林久男氏が、北野中学時代の昆虫を巡る数々のエピソードを紹介された番組のあと、今日のトークは始まった。
「なぜ今、手塚治虫なのか」
手塚の漫画に描かれる超高層ビル群の間を縫って延びる高速道路網、ロボット、ロケットによる宇宙旅行など全くの夢物語が、半世紀経った今、二足歩行ロボットまですべて現実となって、21世紀の人類はその恩恵を享受している。彼の先見性に注目が集まる所以であろう、ということから手塚のパーソナリティの源流を辿る話題が展開された。
昭和16年入学した北野中学の1年3組で手塚と席を並べた林氏は、彼とともに登山班の行事に参加したが、その時、瓢箪山駅で集合までの時間、ひとり捕虫網を掲げて蝶を追う手塚の姿を目撃している。どこへ行くときも捕虫網と毒ビンを持って蝶や甲虫を採取し、教室にも実物の標本や手描きの細密な昆虫の図を持ち込んでクラスの中に昆虫趣味を普及していった。
夏休みに入って昆虫仲間は順番に宝塚の手塚宅に招かれていたが、林氏にもお声が掛かり、ペンネームの由来となったオサムシの仲間で、手塚の大好きなマイマイカブリにご対面のあと、誘われて生まれて初めての昆虫採集を経験された。以後、箕面、能勢での採集に同行し、漫画『ゼフィルス』に登場するウラジロミドリシジミなどにも出会われた。
クラスで「動物同好会」を結成し、手塚・林・今中 (のちの鶴屋八幡当主・故人)の3人で手書きの『動物の世界』を発行した。のち動物担当の今中宏氏脱退によって、手塚・林の2人で「六稜昆虫研究会」を結成し『昆虫の世界』を手書き制作。
のちの手塚漫画に出てくる“ヒゲオヤジ”が『昆虫の世界3』(S18)に登場するが、これは、2人で遊びに行った伊丹の今中氏宅でお会いした彼のおじいさんがモデルであった。
手塚氏の活動は多彩で、手書き随筆集『昆虫つれづれ草』、『春の蝶』、手描き図鑑『甲虫図譜』1,2が発行された。これら壁面に投影された甲虫図譜は、わずか1ミリの甲虫に到るまでルーペで正確に細部が描き出されており、レポーターの私は、その観察眼の鋭さに感嘆するとともに手塚さんのド近眼の理由に納得した。
この活動も戦況の悪化とともに用紙が入手困難となったが、それでも人から譲り受けた帳面の残り頁に図譜を描き込んだり、と手塚の執念が萎えることはなかった。これらの涙ぐましい作品のいくつかも壁面投影で紹介された。
勤労動員で自由時間もなくなったが、手塚は空襲警報下でも採集の手を休めることはなかったとのことである。
少年時代に昆虫観察を通して身につけた深い洞察力と勤労動員中に受けた悲惨な戦争体験が手塚作品の随所に色濃く滲み出ている、と林氏は強調された。
なお、林氏は手塚亡き後も、弟の浩さんと一緒にネットを持って昆虫を追っかけ、今日もこのトークがなければ同行する予定だったとのことであった。
この日、1年生3人、教員5人、一般11人を含めた59人の参加者が林氏のトークに聞き入っていた。会館の都合で、講演のあとの懇親会は1階ロビーに席を移し、2003年4月とされる鉄腕アトムの誕生から約1年経ったこの日、手塚さんの同期生6人がローソクを1本立てたバースデー・ケーキの前に並んで、アトム1歳の誕生日を参加者みんなで祝った。なお、地階の併設展「手塚治虫と昆虫」では、トークで映し出された数々の手塚作品(のレプリカ)に加え、母校に残る中学時代のデッサン2点、100周年の際に描き残したという模造紙大の直筆マンガ2点なども展示されていた。
【あとがき】レポーターの私が初めて手塚漫画に出会ったのは、終戦直後の秋、復刊した「毎日小学生新聞」の連載漫画『AちゃんBちゃん探検記』で、紹介文には「作者の手塚さんは皆さんと同じクリクリ坊主の大学生でお医者さんの卵です」とあり、登場人物の「陰徳武士」は当時の世相を反映した「隠匿物資」をもじった駄洒落と氏の風刺精神でした。
翌21年春、旧制北野中学最後の学年として入学した私たちは、新制高校への移行に伴って北野に6年間在校しましたが、6年在校は61期から64期までの4学年だけです。
他方、手塚さんら59期は戦局の急迫によって4年間在学で卒業させられましたが、他に4年間在学した学年は64期の女子(大手前から中3に移籍)だけです。
美術教室に残されていた石膏のギリシャ壺を描いた手塚さんのデッサンの描写力と繊細さに私たち美術部員は感心していましたが、今日の林さんのお話で成る程と納得しました。岡島先生は「きのう手塚が来よってな、先生、マンガは続けますが、一応、医師免許も取っときたい、と云うて帰りよった」などと部員によく手塚さんの話をされていました。先生の何度目かの個展会場・高宮画廊にも手塚さんは見えていました。
北野中学卒業後の阪大付属医専で手塚さんと席を並べた、のちの阪大医・名誉教授の和田博先生からは「東京で医専時代のクラス会で集まった後、外へ出るとき、手塚はいつも目立たんようにトレードマークのベレー帽を脱ぎよった」と聞きましたが、ベレーを取った手塚さんの風貌がどんなものだったかをお聞きしようにも、和田先生も去年6月に手塚さんと同じ世界に渡られました。
|
|