六稜NEWS-031213
    船場大阪を語る会・第129回例会
    船場の医者・大阪の昔
    〜阿部源三郎さん(50期)


    reporter:谷 卓司(98期)


      船場育ちのボンボン数ある中で、とびっきりの「やんちゃ坊主」を自称する阿部源三郎さん(50期)84歳。この日は、大阪市東医師会の名誉会長として「船場の医者」についての講演であった。ご自身も道修町の薬屋の生まれで、幼少の頃より医薬の世界に馴染みの深かった阿部さんは、大坂の医学の系譜、その原点を懐徳堂に求めた。

      5人の有力町人の出資によって創設された懐徳堂は、幕府公認の大坂学問所となり、18世紀大坂の学問的基盤を形成した。この流れを汲み、およそ100年後の幕末に、医師であり蘭学者の緒方洪庵が興したのが適塾である。蘭学を志す者は誰でも入ることができたという適塾は、単なる医師の養成機関にとどまらず、福沢諭吉をはじめ、近代日本の建設を担う多くの俊秀を生み出したことで有名である。

      阿部さんは、洪庵の七男六女の家系図を紐解きながら、次男の惟準(これよし)と四女の八千代の子孫が、現在の緒方病院の家系であることを語った。会場には洪庵の曾孫(六男、収二郎の孫)にあたる緒方裁吉さん(37期)97歳も見えており「一夜漬けのにわか勉強で、まことに恐縮(本人談)」しながらの講演となった(笑)。
      次に、緒方病院をはじめ、高安病院、華中堂病院、櫻根病院など…昭和5年頃に東区にあった主な病院を列挙しながら、その成り立ちと経緯について簡単に解説。東区で開業医を始めることが当時の名医のステータスであったことを回想された。

      また、大正15年の健康保険法発布に始まる「大阪府の医療制度」の歴史を掻い摘んで概説され、大阪市医師会の歩み(創設明治39年)を簡単に要約された。終戦とともに医師会も新制になり、北医師会と東医師会が二大勢力を誇るなかで、古くからの伝統を背負いながらも、進取の気性に富む東医師会の現在の動勢をまとめて、阿部さんの講演の第一部は終了となった。ちなみに、ご本人は大阪市東医師会で第10代会長を2期お勤めになった。

       
      休憩を挟んで、講演第二部。「船場の医者」のお一人である御自身の回想録である。元来、話し好きとお見受けする阿部さんの饒舌に拍車がかかった。

      集英小学校から北野中学入りを果たし、『坊ちゃん』に憧れて松山高校へ。その後、大阪帝国大学医学部へ進学するも、戦局の悪化のために繰り上げで卒業させられ海軍へ。潜水艦勤務で一度は死を覚悟するも、1ヶ月で転属となり海軍兵学校で軍医官勤務を命ぜられ、江田島から岩国へと移った。持ち前のリーダシップを運良く認められて、生き延びる結果となったのである。同期の西田驍夫さん(後に北野で物理教諭)とも海兵で一緒だったそうだ。

      戦後、昭和23年に大阪市東医師会に入り、商社イトマンで長く産業医を勤めた。大企業のビルがひしめく中央区、その北東部をエリアとする大阪市東医師会では、現在もメンバー360名のうち200名を勤務医で占めるという。

      大酒飲みは親譲りの遺伝のようで「もし自分が臨床医だったら、とっくの昔に肝臓をやられて死んでいただろう」という阿部さん。産業医として、幾多の従業員の生活習慣病を予防する立場から「健康の秘訣は『仕入と販売のバランス』」と言い切る。「過度の仕入を避け、不良在庫を抱えないこと。これはビジネスでもカロリーでもまったく同じ」…何とも分かりやすい表現だ。
      宴会のある日は昼食を控えめにする(ex.ケツネうどんだけにする)とか、毎日のほんの少しの節度が生活習慣病を防ぐ最大の知恵…そう社員に公言している手前「自らが模範を示さないわけにはいかないダロ」。照れ笑いしながら、阿部さんはご自身の長寿の秘訣を語ってくれた。

      また、少年時代のやんちゃぶりを振り返って、こんなエピソードも披露してくれた。

      三越、松坂屋(当時は日本橋にあった)、高島屋…と有名デパートの居並ぶ堺筋は、かつて大阪の目抜き通りだった。大正15年に着工(全線開通は昭和12年)した御堂筋がメインストリートの座を奪うわけだが、奇しくも阿部さんはその工事期間に少年期を過ごした。
      地元少年グループの頭的存在だった源三郎少年は、自慢の米国レミントン社製ローラースケートを履いて、夜な夜な工事現場を滑走していた。完成間近の御堂筋は格好の滑走路だったのだ。業を煮やした東警察の署員が待ち伏せしても、敏感にその気配を感じ取り、年下の子分どもを先に散らせておいて、警官の目の前でスパートダッシュを決め、まんまと追跡をまいてしまうのだ。これも一種の今で言う「暴走族」行為といえるだろう(笑)。
      後年、イトマンに退職警察官が警備員として再雇用された。診察時に、何気なく昔話をしていると、かつて自分が振り切って追跡を免れていた警官と分かり(阿部さんは当時の警官の名前を覚えておられた!)思わず懺悔してしまった…というオチまでついていた(笑)。


      講演後の懇親会で。六稜人に囲まれて。
       
      講演中、一冊のアルバムが回覧されていた。永年、阿部さんが趣味で撮りためた写真の中から秀作を持ってきてくれたのだそうだ。「あなたが死んだらフィルムは処分させて戴きます」奥さんのその一言で、何と…八〇歳の手習いで、遂に昨年初めにパソコンを始めたという阿部さん。山のようなフィルムの箱が、すべてフォトCDのデジタルアーカイブに置き換わるまで、趣味人の愉しみがまたひとつ増えたようだ。


    Last Update: Jan.5,2004