5人の有力町人の出資によって創設された懐徳堂は、幕府公認の大坂学問所となり、18世紀大坂の学問的基盤を形成した。この流れを汲み、およそ100年後の幕末に、医師であり蘭学者の緒方洪庵が興したのが適塾である。蘭学を志す者は誰でも入ることができたという適塾は、単なる医師の養成機関にとどまらず、福沢諭吉をはじめ、近代日本の建設を担う多くの俊秀を生み出したことで有名である。
阿部さんは、洪庵の七男六女の家系図を紐解きながら、次男の惟準(これよし)と四女の八千代の子孫が、現在の緒方病院の家系であることを語った。会場には洪庵の曾孫(六男、収二郎の孫)にあたる緒方裁吉さん(37期)97歳も見えており「一夜漬けのにわか勉強で、まことに恐縮(本人談)」しながらの講演となった(笑)。
次に、緒方病院をはじめ、高安病院、華中堂病院、櫻根病院など…昭和5年頃に東区にあった主な病院を列挙しながら、その成り立ちと経緯について簡単に解説。東区で開業医を始めることが当時の名医のステータスであったことを回想された。
また、大正15年の健康保険法発布に始まる「大阪府の医療制度」の歴史を掻い摘んで概説され、大阪市医師会の歩み(創設明治39年)を簡単に要約された。終戦とともに医師会も新制になり、北医師会と東医師会が二大勢力を誇るなかで、古くからの伝統を背負いながらも、進取の気性に富む東医師会の現在の動勢をまとめて、阿部さんの講演の第一部は終了となった。ちなみに、ご本人は大阪市東医師会で第10代会長を2期お勤めになった。
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集英小学校から北野中学入りを果たし、『坊ちゃん』に憧れて松山高校へ。その後、大阪帝国大学医学部へ進学するも、戦局の悪化のために繰り上げで卒業させられ海軍へ。潜水艦勤務で一度は死を覚悟するも、1ヶ月で転属となり海軍兵学校で軍医官勤務を命ぜられ、江田島から岩国へと移った。持ち前のリーダシップを運良く認められて、生き延びる結果となったのである。同期の西田驍夫さん(後に北野で物理教諭)とも海兵で一緒だったそうだ。
戦後、昭和23年に大阪市東医師会に入り、商社イトマンで長く産業医を勤めた。大企業のビルがひしめく中央区、その北東部をエリアとする大阪市東医師会では、現在もメンバー360名のうち200名を勤務医で占めるという。
大酒飲みは親譲りの遺伝のようで「もし自分が臨床医だったら、とっくの昔に肝臓をやられて死んでいただろう」という阿部さん。産業医として、幾多の従業員の生活習慣病を予防する立場から「健康の秘訣は『仕入と販売のバランス』」と言い切る。「過度の仕入を避け、不良在庫を抱えないこと。これはビジネスでもカロリーでもまったく同じ」…何とも分かりやすい表現だ。
宴会のある日は昼食を控えめにする(ex.ケツネうどんだけにする)とか、毎日のほんの少しの節度が生活習慣病を防ぐ最大の知恵…そう社員に公言している手前「自らが模範を示さないわけにはいかないダロ」。照れ笑いしながら、阿部さんはご自身の長寿の秘訣を語ってくれた。
三越、松坂屋(当時は日本橋にあった)、高島屋…と有名デパートの居並ぶ堺筋は、かつて大阪の目抜き通りだった。大正15年に着工(全線開通は昭和12年)した御堂筋がメインストリートの座を奪うわけだが、奇しくも阿部さんはその工事期間に少年期を過ごした。
地元少年グループの頭的存在だった源三郎少年は、自慢の米国レミントン社製ローラースケートを履いて、夜な夜な工事現場を滑走していた。完成間近の御堂筋は格好の滑走路だったのだ。業を煮やした東警察の署員が待ち伏せしても、敏感にその気配を感じ取り、年下の子分どもを先に散らせておいて、警官の目の前でスパートダッシュを決め、まんまと追跡をまいてしまうのだ。これも一種の今で言う「暴走族」行為といえるだろう(笑)。
後年、イトマンに退職警察官が警備員として再雇用された。診察時に、何気なく昔話をしていると、かつて自分が振り切って追跡を免れていた警官と分かり(阿部さんは当時の警官の名前を覚えておられた!)思わず懺悔してしまった…というオチまでついていた(笑)。
講演後の懇親会で。六稜人に囲まれて。 | |