reporter:日高敦洋(92期)
素晴らしい出会いの場だった。残響の存分に効いた六稜会館ホールに響き渡る朗々とした声。今となっては先ず捜し求めなくては決して辿り着けない充分に澄み切った日本語。あのホールの明るいトーンのフローリングがその瞬間、スーッと能舞台となった。
演目一番はこれからの古典芸能を担う若手により演じられた狂言『盆山』。体一杯に使った軽妙で若々しい立ち回りにぐいぐい引き込まれホール空間は室町に。最初グッと居住まいを正しながらの観劇だったがいつしか相好が崩れ、思わず笑いが。なんとも自然に設えられた導入であった。皆の肩の力が少し抜けたところで安東伸元先輩に御登壇願ってワークショップ、御講話に。現在日本の古典芸術、古典芸能の置かれた危機的環境についての憂慮、なのめならざる状況への慨嘆一頻り。また氏がイランに赴かれた際、彼の地での若者が実にすんなりと日本の古典を何の抵抗障壁もなく受け入れ、氏の予想だにしなかった1000名を超えるイランの観客との小謡朗誦の掛け合いのワークショップが大成功であったこと、そしてその背景には彼らのコーラン朗誦の習慣があるのでは、と氏の御考察があった。氏がイランの若者の目の輝きに打たれた反面、在イランの日本大使の日本古典に対する悲しいまでの知識の欠如を語られていて彼の地で氏が味わった面白くも悲しい今の日本の姿に通じる逆説的情況に聴衆もただ肯くばかりであった。氏が体当たりで大学講師をしつつ現代日本の若者と精一杯『格闘』されているお話や「今はタカラヅカと劇団四季さえあればいい?」「一万円出して日本人が何でわざわざシェークスピアを観に行くか?」「古典芸能はネガティブ、後ろ向き?」の氏の言葉に込められた思いは図らずも氏の古典芸能を力強く敷衍普及活動をされている日常を思い知らされた。本当の日本人、日本らしさをもった日本本来の歌の唄える日本人がもういなくなっていること、それだから一層、頑固と言われようともこのホールに詰め掛けた六稜人にその日本人の範足り得て欲しいとの氏のメッセージを感じ取ることができた。
この狂言という古典にはご存知のように登場人物を措いては取り立てて今流行の大仕掛けの大道具の類というものが全く排除されている。実際このホールのフローリングの床にも50センチほどの柱を模した木柱が方形に置かれた他は竹の渡しが数本設えてあるだけである。後は観る者の大いなる日本的な感性に頼りつつ創り上げていく一種双方向的な芸術である。それだけにそれだから尚更私達は日本というものをしっかり積み上げていかなくてはならないのではないだろうか。ともすれば欧米に偏向するきらいのある中等語学教育も、本当の意味での「ゆとり」をもって日本の古典にもじっくりと対峙できれば…。そのように感じた第3回六稜トークリレーであった。
私は北野時代から古典というものにずっと変わらぬ興味を持ち続け、この一新された六稜会館で古典に触れられる絶好の機会に旨く巡り会うことができた。私の今の職業とは全く関係が無いものの北野の生み出した大先輩、多士済済にこのような形で触れ合えることが出来るのはまさに六稜の力だと感じる。もっともっと多くの六稜の仲間にも味わってもらいたい想いである。