六稜NEWS-030727
講演会「手塚治虫と昆虫」
reporter:谷 卓司(98期)
マンガの神様 TEZUKA Osamu を知らない人は少ないが、彼が無類の昆虫少年であったことを知る人も、また少ないのではないだろうか。旧制中学時代から既に、彼は本名「治」の後に「蟲」をつなげて「治蟲」というペンネームを用いていた。実際には「歩行虫」と当て字をする「オサムシ」は、マイマイカブリの一種で「首が長くて目玉がギョロとしている」その形相が自分に似ている…との由来で好んで名乗っていたようだ。
彼が少年時代を育った宝塚市には、現在、彼を偲ぶ記念館も整備され、とりわけ今年は鉄腕アトムの生誕の年ということで、
テレビアニメ『アストロボーイ・鉄腕アトム』の放映も始まり(フジテレビ系列)、脚光を浴びているが、彼の生家が実は豊中市岡町にあったことは、やはりよほどの通でないとご存じないのではないだろうか。
その「岡町・桜塚商業団体連合会」と「おかまち・まちづくり協議会」とが主催で、『手塚治虫と昆虫』と題する講演会が豊中市立福祉会館で開催された。パネリストには、彼の実弟である手塚浩氏と、北野中学時代の無二の親友、林久男氏(59期)とが卓を並べた。ともに蝶類仲間である。
はじめに浩氏が、兄・治と昆虫との出会いについて、小学校時代の友人(「石原時計店」の御曹司、石原実氏)に手ほどきを受けて昆虫採集と標本作製に傾倒していった…ことに触れた。
次に、当時アンパンが5銭だった時代に、入場料が小人15銭の宝塚昆虫館(宝塚新温泉の附帯施設だった)に兄が足繁く通っていたことや、月刊の館報を創刊号から第40号まで集め、自分なりに一冊にまとめて、蝶の口絵や目次を付して装幀していたこと(これは現物を持参されていた)等を話された。
そして戦後、急に昆虫の世界から足を洗っていった兄に対し、偶然部屋に飛び込んできたオオムラサキを、兄弟二人で奮闘のすえ捕獲した思い出(1952年)に触れ、「あれが生きた蝶と兄との最後のふれあいであっただろう」と回想。兄が昆虫から遠ざかった理由を「創作力の豊かな兄にとって、現実と空想との狭間で、昆虫に対してある限界点を感じた…それ以上、陶酔することが昆虫に対する冒涜になるのではないかと恐れた」(?)からではないかと推理して締めくくった。
次に、林氏が同じテーマ「手塚治虫と昆虫」について語った。
手塚君との出会いは昭和16年4月。1年3組で、背の低い者同士、同じ4班に配属されたことや、登山班(現在の登山部)の新入生歓迎イベント・生駒登山の前日の説明会で、「昆虫網を持参してもいいですか?」と手を挙げて質問した手塚君の印象、農園実習の際にもポケットに毒ビンを忍ばせ(当時は青酸カリが自由に入手できた)、土の中から這いずり出てくる甲虫を採集していた思い出や、その後、教室に標本や図譜を持参して昆虫趣味の普及・啓蒙に努めていた姿について述べた。
次に、宝塚の手塚邸に招かれ、遂に自分も昆虫好きに染まっていった過程や、「治蟲」というペンネームの由来、その後、箕面・能勢にしか生息しないウラジロミドリシジミの採集に出かけた思い出(この辺りの情景はマンガ『ゼフィルス』に採録されている)などにも触れた。
北中でのクラブ活動については、最初「地歴班」に所属するも、テーマが広すぎて飽きたらず、魚類に興味のあった今中君(銘菓「鶴屋八幡」の御曹司、今中宏氏)と3人で「動物愛好会」を結成し、機関誌『動物の世界』を発行したこと(ちなみに今中君の祖父が、後の手塚キャラクターのひとつ「ヒゲオヤジ」のモデルである)。その後、今中君が抜け「六稜昆虫研究会」と改称し、機関誌『昆虫の世界』を発行したこと(11号まで刊行。戦火を免れるために半分ずつ保管したが、手塚君の保管分は度重なる移転の際に消失。林氏の保管分のみが現存する)。その他、手書きの随筆集『昆虫つれづれ草』『春の蝶』の発行や、手書きの図鑑『甲虫図譜1』『甲虫図譜2』の発行などを紹介した。
そして、戦争の影が暮らしの随所にはびこっていった時代背景…自由主義の長坂校長は遂に更迭され、軍国主義の権化・田村校長に代わったことや、戦局の悪化にともなう物資不足、さらには4年生になると勤労動員により自由時間も制約され、雑誌や本の制作が困難に陥ったことにも触れた(この辺りの情景はマンガ『紙の砦』に採録されている)。
多産された手塚作品の多くに共通する特徴に、この少年時代に得た昆虫に対する知識(メタモルフォーゼ=変体、など)や悲惨な戦争体験が色濃く反映していることを指摘して、発表を締めくくった。
会場には、ほぼ定員一杯の…80名を超える手塚ファン・昆虫ファン・六稜関係者が詰めかけ、講演会場の後部では「オサムシ」の昆虫標本や、やはり同級生で写真家の岡原進氏が撮影した「手塚治虫の意外なポートレート」なども展示され、休憩時間には見入る人だかりができていた。
また、受付では、やはり59期の泉谷氏が綴った『手塚治虫少年の実像』や、手塚治虫ファンクラブ会員で今回の講演会の広報を担当された田浦紀子氏が編纂された『虫マップ』(同名のWebサイトは関西圏の「手塚治虫ゆかりの地」を紹介したサイトとして有名)の紙版なども販売されていた。
後半は、今回の仕掛け人、木村勝氏(日本マンガ学会会員)と田浦紀子氏を交え、4人の手塚関係者が、会場で寄せられた質問に回答するカタチでのトーク・セッションを展開。司会進行の田浦誠治氏(手塚治虫ファンクラブ会員)の絶妙な手綱さばきで、脇道に反れがちな焦点が(それはそれで大変、興味深いのであったが!)うまく軌道修正されながら、予定されていた2時間強のメニューは、あっという間に終演を迎えた。
※なお、夏休み最後の風物詩「同定会」が、8月29日(金)、30日(土)の両日、豊中市教育センター(蛍池中町3/06-6844-5294)で開催される模様です。当日は、先だって豊中市で発見された今中宏さんの昆虫標本(中に、手塚治虫氏の採集による14体を含む)が展示されるそうです。
Last Update: Jul.27,2003