reporter:河渕清子(64期)
●初代藤澤友吉氏と二代目友吉氏夫妻 およびその家族(昭和6年) ※中央の坊が友吉郎氏 |
お話の冒頭に「今回有料でお話するのは生まれて初めて…プロのように上手く出来るはずないのだから、まあ500円くらいの値打ちしかないと思う。こやってすぐお金に換算するのも道修町で摺りこまれた損得勘定…」と云われる一方「若い頃はこれが嫌でね」とも話される。「ええカッコしない大阪人は好き、可愛い」とも云われる氏は来月75歳を迎えられるそうだが、とてもそのお歳にはお見受け出来ない。
幼稚園・小学校を通じて体が弱く欠席が多かったそうで、正義の味方としてガキ大将と取っ組み合いのケンカをしたのが最初の最後だったこと、英語の授業時間中に「Here Sir」と答えて他の生徒に大笑いされたこと、外へ出て友達と遊ぶこともなく家庭では「芸事」を習わされ、芝居の観劇や活動写真(=映画鑑賞:洋画)、読書(『少年倶楽部』の「冒険ダンキチ」、「昭和遊撃隊」「猿飛佐助」「塚原卜伝」などの剣豪少年講談を読み耽る)など、たまにプロ野球観戦、夏は別荘で海水浴をされたことなど、また当時の大商家の家族生活や店員さんたちとの触れ合いを共に楽しんだことなどを、今は懐かしい思い出として語って行かれた。
氏の生家を現存の青写真から再現したものが「昭和初期の道修町の建物」の典型例として、住まいのミュ−ジアム・くらしの今昔館(北区天神橋六)に展示されている。
藤沢薬品の創始者「藤澤友吉氏」(友吉郎氏の祖父)は、まず「樟脳」に注目。まだ国内需要も少なく薬業界の関心も薄かった時代に、家庭向け衣料防虫防臭料として売り出し「藤澤樟脳」の名を全国的に広めた。また樟樹を栽培、あちこちの神社仏閣に献木したという。また「海人草」から虫下し「マクニン」の製薬発売をするなど益々社運を発展させたその功績は大きい。
また、大阪は算盤(そろばん)勘定の町と思われがちだが、昔は小説の舞台になるほど豊かな町衆の生活文化もあった。小さい頃は奉公人たちが珍しい薬や香料を扱う姿に心を躍らせたものだが、戦後は商家が姿を消し近代的なオフィスビルの町に変わってしまい「春琴抄」の面影はもうない。とも感慨深げ。
三島氏も「道修町で育った経営者も藤澤さんが最後になってしまった寂しさはあるが、日本の製薬のル−ツがここにあることを21世紀に伝えて行きたい」と語られている。
講話がひとまず終了、客席からの質疑応答に入る。
大正〜昭和初期の道修町に関する質問が殆どで、「ごりょんさんの当時の服装について」の質問は、さすがに藤澤氏を面食らわせていたようだ。戦時中の空襲にも道修町が全焼しなかったことから「空襲」の話題に展開。客席の年齢層の高さを物語っているようだった。
最後に恒例となった三島氏の音頭で「大大阪の歌・おおきに音頭」を唱和後16時頃お開きとなった。
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