大半を大阪の地で過ごして来られた氏の飾らぬソフトな語り口と時折ウイットやユ−モアも飛び出すなど、気取らぬ自然体のお人柄に触れ、会場もあたたかな雰囲気が漂っていた。
「(旧制)松江高校を志望したのは苦手な数学が入試に無かったから」とか。「おかげで日本全国の数学嫌いが集まって大層な倍率になった(笑)」…そんな難関を程なくクリアされた氏は、夜になって淋しくなるとよく映画を観に行ったそうで、今でも週に1〜2回は欠かさないそうである。
「Motion Picture(映画)の神髄はモンタージュにあり」と感じた氏は、詩作にも同じ共通点を見出していく。そうして文学雑誌『四季』(撰者:三好達治、編集:掘辰夫)に投稿を続け、漸く10回目にして入選。以後、三好達治の同人として迎えられ、文学界で一躍脚光を浴びた。詩集「夜学生」がそれである。
「杉山の詩はウイットがきつ過ぎるんだよ。詩は心の中身を出さにゃいかん。いわば、詩は『リ−ベ』そのもの…恋文みたいなもんだ」
私淑していた三好達治のもとを訪ねた折、そう諭された若き杉山氏。
「今になって、やっとその心境が分かるようになったけどね」と回想交じりに当時の思いを語ってくれた。
「ボ−ドレ−ルの『悪の華』なんかも、ボキャブラリ−はあまり多くない。“詩”はそのものの味を出すことが大切なので、形容詞ばかり多用していては駄目だ。平易な言葉の向こうに、人生が象徴されている。小説と詩の違いもそこにある。」
「もともと詩を書く人は個性を以って立つことを誇りにしがちだが、他人の作品を読むことも大切で、調和しながらお互いに自分を失うことのない生き方が大切である。詩作をめざす若い人も室生犀星や北原白秋の詩や漢詩をよく読んでほしい。」
そんな詩作の境地を語った氏の簡潔で鮮明な詩風は、難解な現代詩の多い中で貴重な存在であるのみならず、若い世代にも幅広く共感を呼んでいるのも頷ける。できれば、もっと時間をかけて氏の講義を聞きたい思いが募った。何時までもお元気で後輩たちに詩の道を教えて戴きたいものである。
お話は次第に佳境へと差しかかり、大阪を舞台にした小説に出てくる町、筋、露地、店の名などを織り交ぜながら、言葉の扱い方、大阪の読者に楽しんでもらえる作品の有り方…純文学と大衆小説との狭間の微妙な位置付けが必要である…などから、藤島恒夫、氏と交友のあった織田作之助へと展開して行った。
織田作之助が当時まだ世に受け入れられてない状態だった頃のこと。正宗白鳥に「君の作風は西鶴に似ている」と評され織田が西鶴を本格的に勉強し始めたこと。一時的ではあったにせよアルト歌手Sとのラブロマンスを小説に書いたこと。世間で「おださく」と呼ばれるのを嫌って、ある時友人に出した書簡に「オ−ダ−メイド」の振り仮名を付けたこと、などなど。「可能性の文学」の評判を耳にしないうちに織田が早世したのはまことに残念であったと最後に付け加えられた。
会の締めは恒例の三島さんリ−ドによる「大大阪の歌」「おおきに音頭」を会場全員で唱和。16時過ぎに散会となった。
杉山平一氏【略歴】 ・旧制北野中学校、旧制松江高等学校を経て東京帝国大学文学部美学科卆業。 ・現在:帝塚山短期大学名誉教授、関西詩人協会代表、四季派学会会長、大阪シナリオ学校校長など。 ・受賞歴:第2回中原中也賞(1941年)、第10回文芸汎論詩集賞(1944年)、大阪府知事賞(1986年)、大阪芸術賞(1987年)、兵庫県文化賞(1989年)など。 ・著書:「夜学生」「杉山平一全詩集上下」「詩のこころ・美のかたち」「現代詩入門」「三好達治風景と音楽」「映画芸術への招待」「映像言語と映画作家」など多数。 |