講師の緒方裁吉氏は適塾を開いた緒方洪庵の曾孫に当られ、幼い日の思い出に繋がる適塾を身内の立場からの裏話などもない交ぜながら語って下さった。氏は明治39年(1906)生まれの96歳。旧制北野中學校を37期に卒業された六稜の大先輩である。甲南高等學校、京都大學経済学部を経て三菱商事に勤務された。今も杖すら使わずに壇上に進まれる姿は端正で矍鑠としておられる。且つ話中に引用される数字や年号も明確で驚くほどの頭脳明晰さに会員たちは圧倒されて聞き入った。
裁吉氏の両親は、母・春香が洪庵の血を受け継ぐ孫娘で、父・喜市が鈴木氏から婿に入った外科医であったが共に若くして病死し、裁吉氏は祖父母の収二郎・瓊江によって養育された。収二郎は洪庵の六男であったが、適塾を継承し維持運営に当った人である。人格者で容姿も優れ、森鴎外とも親しかった。鴎外の小説『雁』の岡田のモデルに使われたという。
裁吉氏は自分が幼い頃は育った適塾が特別なものと言う意識は無く友人からも特別扱いされる事も無く過ごして、ただ良い遊び場にしていたばかりであったそうだ。大正4〜9年(1915〜20)にかけて大阪市域で道路の拡幅のために「軒切り」が行われた。近代化への道を歩む過程で都市の改造整備が必要とそれぞれの家から幾ばくかを切り取り道路を拡げたのである。これによって適塾は北側の道路に面した部分が切り取られ改築されたと裁吉氏の記憶にある。元の適塾は現在のものよりかなり大きかったといわれる。
緒方洪庵はこの大坂に適塾を開いてから24年にわたり住まいし教育・著作・医療の活動を続けた。 洪庵が適塾の塾生等に示した扶氏医戒の中に次の文言がある。
一、病者に対しては唯病者を見る可し、貴賎貧富を顧みる事勿れ、長者一握の黄金を以って貧士雙眼の感涙に比するに其の心に得るところ如何ぞや深く之を思う可し。(以下略)
晩年の十ヶ月は江戸幕府の奥医師や西洋医学所頭取を勤めたが、実はこの江戸行きに洪庵自身は乗り気でなく断り続けていたが本人の諒解を取らぬまま命が下ってしまったらしい。江戸へ出立に際し詠んだ和歌がある。
名より實を重んじた洪庵の思いが伝わってくる文面である。
結局洪庵は江戸在住10ヶ月、54歳で血を吐いて急死した。裁吉氏は江戸における生活、人間関係などのストレスで引き起こされた胃潰瘍ではなかったかと推量して非常に残念に思っておられる。急死に際し江戸在住の門下生が駆けつけたそうであるが、適塾の門は身分にかかわらず広く開かれて居り、入門者名簿である「姓名録」に記名するもの六百余名その他を加えると千名を超える。大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、高松凌雲、佐野常民、長与専斎、等も其の門下にいた人たちである。
例会後、緒方裁吉氏を囲んで小宴が持たれ参加させて戴いたが、近く拝顔するほど容色のつややかさ、握手の手の柔らかく温かいことに感嘆したものであった。
緒方洪庵(1810〜1863) 備中・足守藩士の子に生まれた。16歳の頃父の転勤に伴い大坂に出、翌年蘭学塾に入門。医師になる決意をした。のち江戸へ行きさらに蘭学を学んだ。長崎へ遊学後、大坂へ戻り蘭学塾「適々斎塾」を開き多くの人材を輩出。 文久2年(1862)8月、徳川家茂の奥医師、そして西洋医学所頭取に任命され江戸へ出た。「医学のため、子孫のため、討死の覚悟」で大坂を離れたという。翌、文久3年6月10日、突然大量の血を吐き急死。54歳であった。 |