一つ上に戻る 六稜NEWS-020824
    船場大阪を語る会・第124回例会
    緒方裁吉さん「適塾をめぐって」

    reporter:岩本裕子(64期)



      残暑未だなお厳しいこの日にも拘らず、船場大阪を語る会124回例会は事務局長三島佑一氏(60期)のご案内により「今回は史上最多の120名以上が集い、補助席を増やさねばならぬ」と主催者が嬉しい悲鳴を上げられる程の盛況であった。

      講師の緒方裁吉氏は適塾を開いた緒方洪庵の曾孫に当られ、幼い日の思い出に繋がる適塾を身内の立場からの裏話などもない交ぜながら語って下さった。氏は明治39年(1906)生まれの96歳。旧制北野中學校を37期に卒業された六稜の大先輩である。甲南高等學校、京都大學経済学部を経て三菱商事に勤務された。今も杖すら使わずに壇上に進まれる姿は端正で矍鑠としておられる。且つ話中に引用される数字や年号も明確で驚くほどの頭脳明晰さに会員たちは圧倒されて聞き入った。

      裁吉氏の両親は、母・春香が洪庵の血を受け継ぐ孫娘で、父・喜市が鈴木氏から婿に入った外科医であったが共に若くして病死し、裁吉氏は祖父母の収二郎・瓊江によって養育された。収二郎は洪庵の六男であったが、適塾を継承し維持運営に当った人である。人格者で容姿も優れ、森鴎外とも親しかった。鴎外の小説『雁』の岡田のモデルに使われたという。

      裁吉氏は自分が幼い頃は育った適塾が特別なものと言う意識は無く友人からも特別扱いされる事も無く過ごして、ただ良い遊び場にしていたばかりであったそうだ。大正4〜9年(1915〜20)にかけて大阪市域で道路の拡幅のために「軒切り」が行われた。近代化への道を歩む過程で都市の改造整備が必要とそれぞれの家から幾ばくかを切り取り道路を拡げたのである。これによって適塾は北側の道路に面した部分が切り取られ改築されたと裁吉氏の記憶にある。元の適塾は現在のものよりかなり大きかったといわれる。

       
      1940年に大阪府の史蹟に指定され、1941年には国の指定史蹟となる。これによって難儀されたのが緒方収二郎氏で「名誉なことではあるが史蹟指定されては売却する訳にもいかず維持管理に並々でない出費が必要になる。結局当時住んでいた自宅の方を売り払わねばならぬ仕儀になった」と家族としての苦い思い出も語られた。考慮の上、適塾は1942年に緒方家から大阪大学に寄贈され以後管理が大阪大学へ移った。
      第二次大戦下の空襲で多くの家が焼失した中にも不思議に焼け残ることが出来た。その後国の重要文化財に指定されて、文化庁によって解体修理工事が行われ1980年から一般公開がなされている。

      緒方洪庵はこの大坂に適塾を開いてから24年にわたり住まいし教育・著作・医療の活動を続けた。 洪庵が適塾の塾生等に示した扶氏医戒の中に次の文言がある。

        一、医の世に生活するは、人の為のみ、己れがために非らずと云うことをその業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯己を捨てて人を救はん事を希ふ可し。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解する外他事あるものに非らず。

        一、病者に対しては唯病者を見る可し、貴賎貧富を顧みる事勿れ、長者一握の黄金を以って貧士雙眼の感涙に比するに其の心に得るところ如何ぞや深く之を思う可し。(以下略)

      この至言を旨として塾生を薫陶された洪庵先生に今更ながら頭が下がる思いである。

      晩年の十ヶ月は江戸幕府の奥医師や西洋医学所頭取を勤めたが、実はこの江戸行きに洪庵自身は乗り気でなく断り続けていたが本人の諒解を取らぬまま命が下ってしまったらしい。江戸へ出立に際し詠んだ和歌がある。

        おおやけの おはせをうけて
        戌の八月五日の日 あずまに下るとて
        旅たち侍るによりて遺しける
        「よるべぞと思いしものを
         なにはがたあしのかりねと
         なりにけるかな」

      また江戸から長男洪哉宛の手紙にも次のように書かれてある。拙者も召出され候に付ては莫大な物入り、第一家来十人を召し抱え、勤向諸道具、衣服、大小迄今まで所持の品、一切間に合い申さず総て新規に相調え候事故、最早唯今迄に四百金余も費し候へども…(中略)…大坂よりの引越も容易ならざる物入り、さても蓄への金子にては相足り申さず、身分こそ高く相成り、有難き事には候へども、是より大貧乏人と相成り、年老いて苦労致さねばならぬ仕儀、如何とも情けなき次第、推察給へる可く候…(以下略)

      名より實を重んじた洪庵の思いが伝わってくる文面である。

      結局洪庵は江戸在住10ヶ月、54歳で血を吐いて急死した。裁吉氏は江戸における生活、人間関係などのストレスで引き起こされた胃潰瘍ではなかったかと推量して非常に残念に思っておられる。急死に際し江戸在住の門下生が駆けつけたそうであるが、適塾の門は身分にかかわらず広く開かれて居り、入門者名簿である「姓名録」に記名するもの六百余名その他を加えると千名を超える。大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、高松凌雲、佐野常民、長与専斎、等も其の門下にいた人たちである。

      例会後、緒方裁吉氏を囲んで小宴が持たれ参加させて戴いたが、近く拝顔するほど容色のつややかさ、握手の手の柔らかく温かいことに感嘆したものであった。

      緒方洪庵(1810〜1863)
       備中・足守藩士の子に生まれた。16歳の頃父の転勤に伴い大坂に出、翌年蘭学塾に入門。医師になる決意をした。のち江戸へ行きさらに蘭学を学んだ。長崎へ遊学後、大坂へ戻り蘭学塾「適々斎塾」を開き多くの人材を輩出。
       文久2年(1862)8月、徳川家茂の奥医師、そして西洋医学所頭取に任命され江戸へ出た。「医学のため、子孫のため、討死の覚悟」で大坂を離れたという。翌、文久3年6月10日、突然大量の血を吐き急死。54歳であった。


    Last Update : Aug.26,2002