寺田正一郎先生
とにかく当時の旧制高校には「語学で人間形成」というような方針があって、ドイツ語なども週8時間も授業があってガンガンしぼられましたよ。学期初めに前学期の成績が一斉に張り出されるんですが、1/3くらいはみな落第点が付けられてました。非常に語学教育が厳しかったのを覚えていますね。
行ってみると、福井県の学務課長なんかを歴任した校長で、それが鼻にかかって大いばりなんだね。学務課長といえば今の教育長みたいな役職ですよ。それで先達が喧嘩になった理由がよく分かったのだけれど、教授から「くれぐれも後進のことを考えて行動してくれ」と釘を差されていたこともあるし、やはり面接で「ボクは県の学務課長をね…」というくだりになったので、すかさず「はァ、それは大変な要職で」とか何とか言ったら、その日のうちに採用が決まってました。
武生というのは人情も厚くて非常に良い土地柄なんだけれど、いかんせん雪が多くてね。冬が暗いんだよ。それで教授に「何とか明るいところへ…」とお願いしていたら、姫路の工業学校の口ができた、と。それで武生中学には2年半くらい居たかな…ふたたび関西の地に帰ってきました。
池中のほかの先生方が最後のにわとりを一羽つぶして、それこそなけなしのお酒をかき集めて送別会をしてくれました。それで8月15日に終戦でしょ。私の入営日は確か20日だか23日だか(忘れましたが…)とにかく先に戦争のほうが終わってしまった。
どうしたものか…困惑したけれども、西区の兵事課に問い合わせたところ「キミは召集令状を何と心得るか。天皇陛下が貴君をお召しになっておられるのですぞ。私は空襲のさなか、この兵事書類を燃やしてはなるまいと命をかけてお守りしてきた。貴君も勇躍、営門をくぐるべきだ」と激励を受ける始末。仕方がないので奉行袋に遺髪・爪・遺書を準備して大阪の連隊の営門を訪ねたのです。
世の中は面白いもので…戦争は終わっているのに、営門には「祝◯◯君御入営」なんて幟を立ててエールを送りにきている人がいるんですよ。しかも私は門兵に「何ダ、お前…ボタンが外れておるじゃないか」と怒られもして…。
そうして最後に逢った営門司令だか下士官だかが言うには「よく来てくれた。ありがとう。しかし…分かっとるやろ。この令状は破棄して、家に帰ってください。」と。その時の赤紙は破棄もせず長い間大事にしていましたが…引越しか何かの大掃除の時にどこかに失くしてしまいました。
さて、池田中学に帰りますと教頭が「おや、もうお帰りですか。ところで…軍隊で何を貰ってきましたか?」と尋ねるんですね。中には牛やら馬やらを持ち帰った豪傑もいたとかで…。もちろん、私は手ぶらでしたけれど。
そうして、池田中学は新制池田高校に変わり、私は戦後28年まで在職しました。その時の綽名が「あんま」先生でした。池田の後藤校長が北野の林校長と懇意だったらしく、「母校の北野が先生を欲しがっているそうだ。君、行きますか」というので転任が決まったのです。
聞き手●菅 正徳(69期)、谷 卓司(98期)
収 録●Jan.15,1998